大友皇子落去伝説


 古代最大の内乱・壬申の乱に敗れた大友皇子(弘文天皇)は近江の都で自害しました。しかし、上総には大友皇子が落ちのびたという伝説があります。近江で死んだのは実は影武者で、大友皇子は近江を脱出、海路上総に到着したというものです。

 小櫃駅と俵田駅のほぼ中間、君津市郊外の県道に近い小高い丘の上に田原神社の山門が見えます。大友皇子の霊を祀る神社と伝えられ、天武14年(685年)に朝廷の命で建立されたものだと言い、別名、白山神社とも言います。
 小櫃川流域には壬申山、田原御所跡という旧跡の名があり、小櫃川を越えた木更津の矢那地区には「鎌足」という集落があり、中臣鎌足が育った里と言い伝えられています。大友皇子の父・天智天皇は鎌足と力を合わせ大化の改新を行っており、鎌足の娘・耳面(みみもの)は大友皇子の愛人としても知られております。

 大友皇子は耳面とともに近江から落ちのび、地元の豪族らと共に新しい王土建設を目指しました。しかし天武天皇の征討軍がこの地まで到来し、大友皇子は小櫃川支流の御腹川の河原で自害したといいます。もちろん「御腹」川の名は、大友皇子の自害によりついた名前と思われます。
 憤死した大友皇子の霊を鎮めるため、天武側が田原神社を建てたと言われています。神社の背後にある前方後円墳は馬来田国造のものですが、その裏側に隠れるように小円噴があります。大友皇子の墓とされ、海獣葡萄鏡、直刀、勾玉の三種の神器を思わせる遺物が発掘されています。

 耳面とその側近は船で外洋に逃れ、九十九里浜の野手浜(旭市)に上陸し、そこで土地を開拓し、現地で亡くなったと言い伝えられています。現在でも内裏塚と供養碑があります。

 また、中野から養老渓谷の方へ入った筒森部落にも別の大友皇子落去伝説があります。妃をともなって都を落ち、この地にやって来た大友皇子一行が筒森にやって来た際、十市王妃が産気づき、流産したあげく亡くなったといいます。村人がこれをいたんで小さな祠を建て、妃の霊を祀ったといいます。
 その後、天慶8年(945年)に社殿を造営し、「御筒大明神」となり、明治5年(1872年)、現在地に社殿を移し筒森神社に改めました。


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