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明治23年4月4日。まだ鉄道も通っていない時代のこと。
都賀村にある夫婦(めおと)坂で起こった悲劇がありました。
台地から谷に降り、すぐに台地へ登る地形で、2つの坂が向かい合っていることから夫婦坂と呼ばれていました。
この年の前年春、同じ場所で強盗事件がありました。
川崎銀行佐倉支店の公金7500円を輸送中に日本刀で襲われ、奪われてしまいました。
鉄道も車もない時代、現金の輸送も脚夫(飛脚)に持たせて運びます。
この強盗事件のせいで銀行は破産してしまいました。
1年後、再び同じ夫婦坂で再び公金を狙った強盗事件が発生。
しかし今回は護衛の警官がついていました。
ところが犯人は日本刀ではなくピストルを持っていました。
立続けに発射された弾丸のうち2発が巡査に命中。
腰と左肘に被弾しながらも巡査は犯人を組み伏せ、脚夫を千葉警察署へ向かわせ応援を待つことにしました。
組み伏せる際、更に腹も一発撃たれており、かなりの重傷です。
悪あがきをする犯人は、仲間がいるかのように大声を出したり、金の一部を渡すので見逃してほしいとか、弾丸が当たっただろうと言って来ます。
しかし巡査は「一発も当たっていない」と答えました。
結局、犯人は捕まり、公金は奪われることなく無事に輸送完了。
巡査は県立病院へ入院となりました。
しかし3発目が致命傷となり、4日後に31歳で殉職となってしまいました。
死ぬ直前、見舞いに訪れた佐倉警察署の上司に「もう、おいとま乞い致します。職務のために倒れるのは満足です。これで永訣します」と言い残しました。
この時、巡査の妻・よ祢は産後わずか10日。
次席警部の佐倉孫三にことの次第を話しました。
すると、
「良人が職のためにケガをするのは仕方ありません。
その賊は逃がしましたか、捕らえましたか?」
と気丈に尋ねました。
「立派に捕らえました」と報告すると、
「それなら安心です」
と答えました。
しかしその後、殉職の報を聞くと、悲嘆のあまり生まれて間もない子を残し、夫の後を追うように10日遅れて後を追うように亡くなってしまいました。享年22歳でした。
遭難の地が「夫婦坂」であったことを思うと涙を誘います。
この2年連続の強盗事件は同一犯によるものでした。
最初の事件の時、公金を勘定し荷造りし、脚夫に持たせた行員・鈴木羽右衛門は責任をとらされ解雇。
この鈴木の五男が翌年、犯人を捕まえた巡査・鈴木清助でした。
犯人は印旛郡内の旧家の主で52歳の大男だったそうです。後日、市ヶ谷刑務所で刑死しました。
父の汚名を息子が命にかえてそそいだ英雄談は人々の心を打ち、長く語り継がれました。事件のあった場所には現在も『千葉県巡査鈴木清助殉職碑』がひっそりと立っています。
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