九十九里 将門生誕伝説


東金市御門に帝王山妙善寺があります。
この寺の由来記にある桔梗の前は将門の母となっています。

平良将が妻の桔梗の前が妊娠したので陰陽師に占わせたところ、「頭脳明晰、武勇にすぐれた男児だが恐るべき反逆児となるであろう」とされました。
大凶が出たため、良将は兄の国香と相談して、桔梗の前を舟に乗せて流してしまいました。
家来の三平が泳ぎ追いかけて同乗して九十九里の海保へ漂着しました。
桔梗の前は、十文字川のほとりで産気づき、男の子を出産しました。

村の人たちが布を川の流れに張って水をきれいにこして産湯に使ったので、「布留川(ぬのどめがわ)」と呼ぶようになりました。
そこへ七郎兵衛という漁師が通りかかって、着ていた袖なしをぬいで着せ、自分の家で世話をしました。
後にこの家は「布留川」という姓を与えられています。

三枚橋という橋がこの産気づいたそばにかかっていますが、この時から「産前橋」と呼ばれるようになったといいます。
「三門」を「御門」と変えたこのあたりの集落を「殿廻」としたのは成長した将門が政務をとった所だからだといいます。
天慶の乱に敗れ、流れ矢にあたった将門は、産前橋まで逃げて来て海保寺(妙善寺)にかくれ、天慶四年に亡くなったということです。

伝説は史実ではないので、歴史的に疑問な部分はあります。
しかし、房総各地に時の政権に矢を引いた逆臣・将門が崇拝されて、様々な形で語り継がれているということは注目すべき点です。
千葉市教育委員会が以前まとめた『泉地区の文化財』によると、野呂の某家は、将門の残党であると伝えられており、正月の門松と年神様の棚が他家と異なるとそうです。
この家は門松を立てずにその場所に盛砂をするだけだといいます。
また、年神の棚は樽の木を60cmくらいに切って二つ割にし、なわで編み30cm幅の棚を作るだけだといいます。
その理由は、戦さに敗れたのが年の暮れで年末年始の支度ができなかったので、こうなったのだと伝えられています。
この家の分家7戸も同じようにするということだし、もちろん成田詣はしないし、お礼も持ち込まないそうです。

将門ゆかりの地は、この他にも市原市奈良の大仏と平親王山、千葉市亥鼻の七天王塚、佐倉市の将門山、香取市の光明院、市川市八幡の薮知らず、野田市関宿町の駒形神社、それに各地に手植えの桜や松など数多くあります。


もう一人の桔梗の前

将門の愛人に「桔梗の前」という女性がいました。
香取の牧野長者の娘ともいわれていますが、確かなことはわかりません。

市原の永吉の吉野台に、この桔梗の前の墓と伝えられる塚があり、それにまつわる話しがあります。

桔梗の前は、兄の藤原秀郷に頼まれ、敵の将門に取り入りかわいがられましたが、密かに情報を兄のもとに伝えていました。
戦いが激しくなると、桔梗の前は戦乱を避け上総の奈良に来ました。
そして、そこで自分の通報がもとで、将門が討たれたことを知りました。
桔梗の前は悩んだ末、自刃して命を断ちました。
里人たちは桔梗の前を哀れみ、屍を吉野台に埋めて塚を築きました。
それ以来、この地の桔梗は花をつけなくなってしまったといいます。

我孫子や市川の古い集落では将門を裏切った桔梗の前を憎んで、今でも桔梗を植えない所があります。
しかし市原では、裏切った桔梗の前の死にとても思いを寄せています。

舞台谷

桔梗塚の北には、「舞台谷」という谷があります。
ここは、里人たちが、桔梗の前の霊をなぐさめるために舞った所だということです。
また、一説には、将門がこの地を訪れた折に酒宴を開き、桔梗の前が舞った所だともいわれています。


遠ヶ澪のサメ

昔、船橋の「遠ヶ澪」には、大きなサメが住んでいたそうです。
このサメを目にした舟人は、みな生きて帰れないほどに恐ろしがりましたが、これにも桔梗の前の話が伝えられています。
将門が戦いに敗れて討ち死にすると、桔梗の前は、どこへ行くあてもない旅に出ました。
そして、船橋の海岸で、漁師に頼んで舟に乗せてもらいました。
舟が深い淵に出ると、桔梗の前は身を踊らせて入水してしまいました。
それ以来、この遠ヶ澪には大きなサメがあらわれるようになったといいます。


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