阿久留王の伝説


 鹿野山に住む豪族の阿久留王は、当時上総一帯を支配していました。中央の大和朝廷からは蝦夷(エミシ)と呼ばれていて、中央に従わない勢力として討伐の対象になっていました。

 阿久留王は景行天皇の皇子が拠っていた高坂城(現・袖ヶ浦市吉野田)を攻めとりました。これに対し、天皇の命令をうけた日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征軍を率いて房総に到着。阿久留王と対決することになります。
 日本武尊は、まず近くの滝口城を攻め落とし、次いで高坂城を奪回。高坂城の近くを流れる鑓水川(小櫃川の支流)は日本武尊の軍が阿久留王らと戦って血に染まった槍を洗った川といわれています。また、高坂城蹟の「鬼塚(きづか)」はこのときの合戦で討ち死にした阿久留の兵士を葬ったものと伝えられています。
 鬼泪(きなだ)山で熾烈を極めた激戦を行うものの敗れ、北上。六手の地で捕らえられ拷問された後、八つ裂きにされました。付近の台地の「八つが塚」と呼ばれる方墳は、八つ裂きにされた阿久留王の墓と伝えられています。

 日本武尊は阿久留王が生き返るのを恐れて、首や胴をバラバラにして別々の場所に葬ったといわれています。
 胴体を埋めたといわれる「阿久留王塚」は、下町から福岡方向へ500m程下った左側の杉林に、前方後円墳状の墳墓が残っています。

 阿久留王は別称を「六手王(むておう)」ともいい、現在も鹿野山麓に実在する君津市内六手の出生と伝わっています。

 君津市南部の鹿野山に阿久留坂や阿久留塚という地名が残っています。あるいは、さらに敗走して小櫃川のほとり高坂城で滅びた、という伝説もあります。

 『上総国誌』には次のような記述があります。
茅野村(現・木更津市茅野)周辺を「保比留」といい、昔の「畔蒜(ほひる)」、または(あびる)の遺称である。この村の人々は11月26日から10日間、男女とも髪を整えず、風呂に入らず、紡績もしない。談笑を禁じ、夜は火も灯さず、武人を家にいれない。これを三替(みかわり)という。言い伝えによると、日本武尊が鹿野山の賊を伐ったのは11月26日に始まり12月5日に終わった。10日間、地元の人たちは恐れかしこみ、門戸を閉ざしていたという。

 「阿久留王」というのは個人名ではなく、おそらく「阿久留」という土地の王という意味だと考えられます。延喜5年(905年)の『延喜式』の地名にある「畔蒜(あびる)」は、『和名抄』では「阿比留」と表記されています。「阿久留」と似ています。
 蝦夷の地名に「アクツ」「アクト」「アクロ」があるという説があります。「悪路」「阿久利」「阿久津」「明津」「飽戸」「悪戸」というような地名で、「阿久留」もこれに類するものかもしれません。

 鹿野山は「神の山」として古来から崇められていましたが、なぜ「神の山」と呼ばれるほど尊いのかというと、もともと「金生」から来ているのではないかという説があります。つまり製鉄が可能な山ということです。そこにいた製鉄部族が力をつけ、その王が「阿久留王」だったという線も考えられます。日本武尊は出雲に代表されるように、製鉄部族を征伐しているようにも感じられます。


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