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鹿野山に住む豪族の阿久留王は、当時上総一帯を支配していました。中央の大和朝廷からは蝦夷(エミシ)と呼ばれていて、中央に従わない勢力として討伐の対象になっていました。 阿久留王は景行天皇の皇子が拠っていた高坂城(現・袖ヶ浦市吉野田)を攻めとりました。これに対し、天皇の命令をうけた日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征軍を率いて房総に到着。阿久留王と対決することになります。 日本武尊は阿久留王が生き返るのを恐れて、首や胴をバラバラにして別々の場所に葬ったといわれています。 阿久留王は別称を「六手王(むておう)」ともいい、現在も鹿野山麓に実在する君津市内六手の出生と伝わっています。 君津市南部の鹿野山に阿久留坂や阿久留塚という地名が残っています。あるいは、さらに敗走して小櫃川のほとり高坂城で滅びた、という伝説もあります。 『上総国誌』には次のような記述があります。 「阿久留王」というのは個人名ではなく、おそらく「阿久留」という土地の王という意味だと考えられます。延喜5年(905年)の『延喜式』の地名にある「畔蒜(あびる)」は、『和名抄』では「阿比留」と表記されています。「阿久留」と似ています。 鹿野山は「神の山」として古来から崇められていましたが、なぜ「神の山」と呼ばれるほど尊いのかというと、もともと「金生」から来ているのではないかという説があります。つまり製鉄が可能な山ということです。そこにいた製鉄部族が力をつけ、その王が「阿久留王」だったという線も考えられます。日本武尊は出雲に代表されるように、製鉄部族を征伐しているようにも感じられます。 |