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稲作文化
弥生時代になっても東日本は大きな変化を見せません。しかし西日本では稲作が盛んになり、大陸や朝鮮半島からの渡来人による新しい文化が浸透し、一気に弥生化が進んでいきました。東日本がすぐに弥生化しなかった理由は、それだけ住みやすい土地だったということだと思います。南関東で弥生式の農耕社会が形成されたのは宮ノ台式土器の時期で、1世紀頃にあたります。
房総の古代文化は俗に「黒潮文化」と呼ばれます。黒潮に乗って南西日本からの文化が流入するからです。
再葬墓
南関東には再葬墓の風習がありました。遺体を仮埋葬し、白骨化した骨だけを納骨用の土器に収納した埋める風習です。稲作とともに方形周溝墓が普及し、再葬墓の風習はなくなります。
環濠集落
稲作の時代に入るとムラは大規模な環濠集落に変わります。佐賀の吉野ヶ里遺跡が有名ですが、房総では佐倉市の六崎大崎台遺跡があります。直径140mに及ぶ濠で囲まれた集落には153軒の住居跡が見つかっています。谷を隔てた西側に43基の方形周溝墓があります(寺崎向原遺跡)。計画的にムラづくりが行われたことがわかります。
環濠集落や方形周溝墓は台地にありますが、周辺の低地には水田が広がっていたと思われます。
弥生末期の社会変動
谷を挟んだ西側の台地にあった六崎大崎台の墓域は、2〜3世代を経て集落の南側に移動します。また弥生時代中期後半の一時期には一辺約16mという最大規模の方形周溝墓が集落の中央に築かれていました。
弥生時代末期、六崎大崎台の環濠集落は消滅します。変わりに台地の北部に大型住居を伴ったムラが作られ、南には低い墳丘を有する大型の方形周溝墓が営まれました。墓はムラの共通空間として認識されていたのではないかと思われます。
このような墓の変貌は首長の交代やあり方の変化によるものではないかと思います。
千葉のヒスイ
ヒスイの原産地といえば新潟県の姫川ですが、300km以上も離れた東葛飾地区にも原石が持ち込まれ、玉づくりが行われていました。ヒスイは硬く、加工が容易ではないためその技術がどのように伝えられたのでしょうか?(流山市三輪野山遺跡)
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