房総の歴史 太平洋戦争
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満州事変
 深刻な不況と社会不安の中の昭和6年(1931年)9月、満州に駐屯していた関東軍が奉天(瀋陽)近郊で南満州鉄道を爆破、満州事変が起こります。千葉県からも鉄道第一連隊や佐倉の第57連隊が動員され、町村の軍事後援会や婦人会、青年団等も町民大会を開いて出征軍人を激励したり慰問袋を作って戦地に送ったり、また国防献金を集めるなど、戦争熱に沸き立ちました。
 国内の政治情勢も不安定で、満州事変の早期収拾を果たせなかった若槻礼次郎民政党内閣が総辞職、政友会の犬養毅内閣がスタートしましたが、昭和7年(1932年)の五一五事件で暗殺されました。後継首相には海軍大将の斎藤実(まこと)が就任、政党政治の時代が終わりました。
 満州事変による中国東北部への軍事進出と満州国の樹立は厳しい国際非難を招いたため日本は国際連盟を脱退します。国内では軍部の発言権が大きくなっていきました。そんな中、昭和11年(1936年)、軍内部の対立を背景に一部陸軍部隊の反乱である二二六事件が起こりました。軍の政治介入はますます激しくなっていきます。

挙国一致
 昭和12年になると、廬溝橋事件から戦線を拡大、上海から南京を占領し、全面的な日中戦争に発展、国民精神総動員運動を提唱し、内閣は国民の戦争への協力体勢を組織しようとしています。
 千葉県でも国民精神総動員実施要項が作成されました。日本精神発揚のための宮城遥拝から、神社参拝、国旗掲揚、時間励行、早起き、節酒節煙、出征兵士への感謝と留守家族の慰問・援助、勤労奉仕、国産品の使用など、生活のすみずみまでを規制する内容です。
 挙国一致の新体制運動が提起され、これに呼応し政友会が解党を宣言、大衆社会党を含め次々と解党し、民政党を最後にすべての政党が解散しました。そして10月には大政翼賛会が結成されました。
 千葉県でも大政翼賛会千葉県支部が発足し、戦争の進展とともに様々な施策が打ち出されました。生活必需物資の配給、貯蓄や公債の割り当て、防空訓練、納税の督励、銃後の支援活動、農事の共同作業や相互支援等、多様な活動の拠点とされました。従来の県会や町村会の機能は失われ、大政翼賛会が行政組織と密着しました。

開戦と千葉
 昭和16年(1941年)12月、近衛(このえ)文麿(ふみまろ)首相の後を受けた東条英機首相は開戦への道を突き進み、真珠湾攻撃とアメリカへの宣戦布告をします。しかし当初の戦勝ムードは長くは続かず、昭和17年7月のミッドウェー海戦を契機に苦しい戦局を強いられ、国を挙げての臨戦体制に突入することになります。
 農業比重の大きい千葉県では食糧増産が第一に掲げられ、供出割当が厳しくなる一方、肥料の供給は年々減少し、増産の目標達成は困難でした。農家の中心的な労働力が兵士として動員されたことによる労働力不足から、農繁期の共同炊事事業や託児所を設置するなど、農村婦人の労働力に農業経営の重心が移されていきました。
 市川市、船橋市、津田沼町、千葉市にかけては軍需工業が次々に移転し操業を開始、東京湾の埋め立て工事も進められ日立航空機が移り、さらに茂原、興津、鴨川などにも工場が建設され戦争が長引くにつれ千葉県の工業化比率が進みました。中小企業は整理統合が進み、多くは陸海軍関係の下請け工場として再編されました。また九十九里はアメリカ本土攻撃のための風船爆弾の基地となりました。
 千葉県は首都防衛の最前線に位置づけられ、飛行場や軍隊の駐屯地が増えました。昭和20年、アメリカ軍が沖縄を制圧、本土決戦が必至の情勢となると、九十九里浜の長い海岸線が首都侵攻の有力上陸地として想定、アメリカ軍の上陸作戦に備える最前線となりました(右上写真は本土上陸作戦を阻止するための射撃訓練の様子)。事実、アメリカ軍はオリンピック作戦と名付けられた関東地方への上陸作戦を計画していました。九十九里から千葉、習志野にかけて、沖縄のような激戦が行われたかもしれなかったのです。アメリカ軍はオリンピック作戦を実施した場合、100万人の死者が出るだろうと予想しています。

学徒動員と地下秘密工場
 戦争末期になると各地に軍需地下施設が作られました。学徒動員が始まると、木更津中、木更津高女、 安房中、長挟中、市原中、千葉工業、千葉商業、敬愛高女の学生たちがアメリカ軍の艦砲射撃や機銃掃射を避け ながら地下工場に通い、裸電球の下で武器の製造や修理に追われました。男子学生は機械の運び入れの作業や 佐貫駅からの道路の整備、トンネル内の敷地造成作業に従事しました。地下秘密工場では、工員と学生を含め 約2000人が生産や修理に従事しました。昭和20年7月には横浜にあった石川島航空会社が佐貫の地下工場へ疎開 しました。しかし地下工場は狭い上に湿気が多く、作業機はすぐにサビつき、作業員の感電、トンネル崩落の不安 等から作業能率は非常に低いのが現状でした。
 終戦後、トンネル内の図面、書類から学徒の日記に至るまですべてを焼く命令が出され、工場内の機械類は アメリカ軍の調査に備え、一旦土中に埋められたといいます。トンネル掘りに動員されていた朝鮮の人々は解放 されましたが、生活の保障はされず放り出された格好で、その日の生活に困窮することになりました。

空襲
 昭和19年(1944年)8月、アメリカ軍がサイパン島を激戦の末に占領、基地を作り11月からB29爆撃機による日本本土への爆撃が開始されます。昭和20年3月の東京大空襲以後、空爆は地方都市へも拡大されます。市川市は昭和19年11月に初空襲を受けていましたが、銚子市も昭和20年2月に艦載機による攻撃を受けました。銚子市では、3月のB29による空爆で200人以上の死傷者が出、焼失戸数も1000戸を超えました。7月には市の全域が夜間空襲を受け、死傷者1000人余、焼失戸数は3950余戸に達しました。銚子市は8月にも攻撃されています。
 千葉市は5月、6月と空襲にあっていました。6月の空襲はB29約300機によるもので、目標は蘇我に建設された日立航空機千葉工場でしたが、千葉鉄道管理部、千葉高等女学校も爆撃されました。7月6日深夜からの空爆は本格的なもので、死傷者1595人、被害戸数8904戸、被災者4万1212人を数え、市街地の7割が焼失しました。
県下で空襲の被害が大きかったのは千葉市と銚子市でしたが、他にも市川市、松戸市、さらに白子町(東金市)、秋元村(君津市)、 鋸南町といった農漁村でも爆撃や機銃掃射を受けました。房総が関東の出入り口にあたる場所であったからです。
 千葉県では東京での空襲が激化するとともに学童疎開を各地で受け入れましたが、本土決戦の最前線となったことから九十九里浜沿岸の地域住民、老人、病人、児童などの縁故疎開が勧奨されていました。

終戦
 大本営は九十九里浜を上陸して来るアメリカ軍を迎撃する作戦を立てます。しかし防衛陣地の構築は進展せず、アメリカ軍の圧倒的な物量に対抗するのは実質的には不可能だったと言えます。
 昭和20年(1945年)、昭和天皇がポツダム宣言を受諾しますが、その一因として九十九里における防衛計画の大幅な立ち遅れが報告されています。

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