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大正デモクラシー
桂太郎内閣に反対する憲政擁護の運動が巻き起こり、大正2年(1913年)1月に立憲国民党は分裂し、一部は桂太郎の新党立憲同志会に走りましたが、千葉県では鵜沢宇八が脱党しただけで他は立憲国民党に留まり、中でも関和知は護憲運動の先頭に立っています。
第一次世界大戦
日露戦争後、長く停滞していた日本経済は大正3年(1914年)8月の第一次世界大戦参戦により活性化し、千葉県下諸産業にも好影響を与えました。大正6年に知事に就任した折原巳一郎は、財政収入の増大を背景に積極的な県政に着手、河川改修や道路改修計画を県会に提出しますが、巨額の支出を伴う施策は必ずしも期待通りの事業計画を推進することは出来ませんでした。
ストライキ
千葉県には大規模な工業は少なく、代表的なものとしては銚子町や野田町の醤油醸造業です。伝統的とも言える苛酷な労働条件に対抗すべく大正6年(1917年)12月に銚子町の数十軒の醤油製樽工場の労働者が労働組合を結成します。しかしその中心人物数人が解雇されたため、組合に参加した労働者1000人余が復職を要求しストライキに突入しました。翌年2月まで争いが続き、労働者に大きな影響を与えました。
大正8年には野田醤油の労働者1300人が給与と賞与の増額を要求してストライキに入り、要求が拒否されると辞職戦術を取り、多数の労働者が転職しました。これが銚子の製樽労働者にも波及、200人が賃金アップを要求してストに突入、要求を実現しました。
醤油醸造業の労働者は大正10年1月に野田醤油労働組合を結成し、12月には日本労働総同盟の支部として全国的な労働組織に所属することになりました。
この後、大正12年には会社側と労働者側が対立、争いが泥沼化してしまいます。このため県知事が調停に入るという事態も起こりました。野田では昭和2年9月にも騒動があり、これは会社側が要求を拒否したばかりか組合の切り崩しを計り、右翼団体を動員し次々に多数の労働者を解雇しました。あせった一部組合員による暴行事件が起き、更には昭和天皇へ直訴を企てたりしたことから会社側も収拾に動き、県知事が立ち会って交渉が持たれるという長期の争議もありました。
江戸川放水路
明治43年(1910年)8月の大洪水を契機に利根川の水量を調節することになり、翌年の明治44年から昭和5年(1930年)に渡り、江戸川の大改修工事が行われました。行徳では江戸川下流に大規模な放水路を新たに作るため、河原、妙典、田尻、高谷の160町歩が買収され、大正5年(1916年)から掘削工事が始まり、大正8年に完了しています。川床を固める床固工事の後に約3kmに渡る放水路が完成しました。これにより行徳町は東西に分断されてしまい、それを僅かに繋ぐ唯一の道として行徳橋が架設されました。
昭和11年(1936年)、江戸川区篠崎との間に水閘門の建設が行われ、また昭和25年(1950年)からは可動堰として行徳橋が建設され、昭和32年(1957年)3月に完成しました。当時、東洋一を誇り、全長420m、幅7m、総工費7億9000万円でした。江戸川は昭和40年(1965年)から、放水路を江戸川、本流を旧江戸川と名称が変更になりました。
千葉港
右の写真は大正時代の都川河口付近です。五大力船やはしけが見えます。登戸港や寒川港で五大力船からはしけに荷物を積み替え、都川を上り下りしていました。各地で道路整備が進み、鉄道網も広がりを見せていましたが、江戸時代からの船運もまだまだ盛んで、登戸港や寒川港は活気に満ちていました。
拡がる鉄道網
大正年間には鉄道網が房総中に伸びました。難所と言われた鋸山トンネルが開通して北条線が姉ヶ崎から木更津、湊、金谷、勝山、那古、北条が開通しました。更には南三原、江見から鴨川までつながっています。房総東線も大原から先、勝浦まで延長しました。久留里線、木更津から久留里までも開通しています。
また、鉄道連隊が全国で唯一、千葉と津田沼に置かれ、演習のためあちこちに軍用線が作られました。千葉と津田沼間、津田沼から松戸へ(現在の新京成線)、作草部から四街道へ、殿台から山田台、八街を経て三里塚へと、かなり大規模なものでした。鉄道連隊は軍用線以外でも房総の鉄道建設に協力しています。
関東大震災
大正12年(1923年)9月1日、関東大震災が起こりました。房総南部の東京湾沿いを中心に大きな被害を受け、特に安房郡、君津郡、市原郡の被害が大きく、また千葉県下でも朝鮮人が暴動を起こすというデマが広がり、軍隊による殺害や船橋町等、東京近郊の町村で民間の自警団や群衆が朝鮮人を殺害するという事件が起こりました。(右写真は震災直後の館山市の様子)
(右上の写真は大正時代の千葉公園です。綿打池が見えています。木の感じなど、現在とはだいぶ雰囲気が違います。右下は同じ頃の千葉町の様子です。木造の家が立ち並び、電燈が見えます。人力車が時代を感じさせます。当時としては広い道幅も、現在の車社会の感覚では狭い道路ということになってしまいます。人通りが少ないのは早朝のためと思われます。)
普通選挙
第一次世界大戦後、普通選挙を要求する声が強まり、特に労働者や学生などが普通選挙運動の中心となって大きな広がりを見せました。こうした潮流を受けて護憲三派内閣は大正14年(1925年)に公約の普通選挙法を成立させました。公私の扶助を受ける貧困者や住所不定の者以外の25歳以上の男子はすべて選挙権を持つことになりました。
千葉県における普通選挙は昭和3年(1928年)1月の県会議員選挙で初めて実行されました。定員41人のところに81人が立候補し、特に労農党4人、社会大衆党1人が名乗りをあげたのが注目されましたが、激しい選挙戦の結果、政友派24人、民政派15人、中立2人が当選、政友派の圧勝に終わり、無産政党からの当選者はありませんでした。
普通選挙法での最初の衆議院議員選挙はこの年の2月に行われています。
東京湾
右は昭和初期の稲毛海岸の様子です。富士山が見え、海中に浅間神社の鳥居も見えています。ここで見える海はすべて埋立てられることになります。
東京湾にはたくさんの船が出ています。海苔等が豊富に採れ、千葉の名産として出荷されていました。
世界恐慌
昭和4年(1929年)10月、アメリカに始まった世界恐慌が各地に波及、日本でも大きな影響が出ました。千葉県でも繭価の急落と米価の値下がりは農家を直撃、昭和6年には最低水準に落ち込みました。農家の収入は大きく減ったにも関わらず、租税負担は変わらなかったため滞納者が続出し、町村財政へも深刻な影響を与えました。水害や干害による不作のため小作料軽減を要求する農民と、土地取り上げを強行しようとする地主側との間で深刻な争いが頻発しました。
智恵子抄
詩人であり彫刻家でもあった高村光太郎が、その妻・智恵子の療養地として九十九里浜の真亀を選んだのは昭和9年5月のことです。光太郎は週に一度、智恵子を見舞うために東京から通いました。『智恵子抄』は九十九里が舞台で、現在も智恵子が住んだ家が保存されていますがとても粗末なものです。
九十九里浜を訪れた文人は光太郎以外にも多く、若山牧水、徳富蘆花、竹久夢二、獅子文六らは九十九里にちなむ作品を残しています。
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