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2つの平氏の争い
平将門の乱を鎮圧した側の平貞盛やその子孫は、その後着実に勢力を拡張し、中央政界で官人として出仕し貴族と主従関係を結んだりしています。中央では衛門府の役人として活躍し、その後受領に任じられている例が多いようです。
平貞盛やその子孫は、平国香の流れですが、当時東国ではもう一つの平氏の流れがありました。国香の弟の平良文の流れで、お互いにライバル関係にありました。永延元年(987年)、兄・貞盛とともに将門を追討した繁盛が、延暦寺に金泥大般若経600巻を書写し奉納しようとしたのを、良文の子、忠頼・忠光兄弟が妨げたというのです。訴えを受けた政府は繁盛自身が運ぶことで争いが起こらぬよう、近江や美濃の国司に運ばせ解決しましたが、忠頼らは「旧敵を駆逐するため」とその意図を述べています。この時すでに良文の流れと貞盛の流れの間には対立関係があったことになります。
下総国府焼き討ちと意外な処罰
長保5年(1003年)、平維良(これよし)により下総国府が焼き討ちされました。維良は貞盛の弟・繁盛の孫に当たります。この乱は上総、下総、武蔵を舞台としますが、追討使が派遣され、維良は越後に逃亡、1年に満たない短期間で事件は収拾しています。
将門の時と同じく、国府を焼き、追討使が派遣されているのにも関わらず、この事件は藤原道長の主導により中央では不問にふされ、維良の処罰も明らかではありません。それどころか、後に鎮守府将軍になっています。道長に馬を送ったりしたこともあるでしょうが、維良を取り巻く貞盛の流の平氏一族の維叙(これのぶ)、維将、維衝(これひら)らが受領を歴任、また検非違使となるなど中央で活躍し、摂関家との関係を作り上げていたことが背景にあると考えられます。この事件により、維良の父・兼忠が築いた上総国の基盤は影響を受けることなく、貞盛の流れの平氏の上総、下総における勢力は強固なものとなりました。
平忠常の乱
長元元年(1028年)、平忠常が安房国守を焼き殺したことにより、忠常とその子・常昌(つねまさ)を追討する宣旨が下されます。下総、上総を基盤にしていた忠常が安房を攻めたのは、在地における安房国住民と国司との衝突があったとみられます。『源頼信告文』には忠常を極悪人のように書かれていますが、これは乱を鎮圧した側の立場から記されたもので、おそらく真相は、官物の納入をめぐる国司の収奪に反対する紛争ではないかと思われます。
追討使には貞盛の流れで維将の孫にあたる平直方と中原成通が任じられます。追討に消極的な成通に対し、直方は積極的な行動をとります。これは東国におい長年にわたる貞盛の流れと良文の流れの対立を清算しようとする意志の表われではないかと思います。
坂東に下った追討使でしたが、思うような成果を挙げられず、翌年には東海、東山、北陸道諸国と追討使に対し、追討の促進を命じる太政官符が出され、またこの時期に坂東の国司の多くが改任されており、これは忠常包囲網の形成だと思われます。
しかし大椎(おおじ)城(千葉市緑区土気)を本拠とする忠常の勢力は衰えを見せず追討使の成果もあがりません。間もなく中原成通が解任され、長元3年7月には平直方も解任されました。新しい追討使には源頼信が任じられた。『今昔物語』によると、乱の10年以上前に、この両者は主従関係にあり、これを利用したものだと考えられます。
香取の海周辺の源氏を率いる頼信と、大友城(東庄町)に拠を移しこれを迎え討つ忠常。頼信は平惟基軍を合わせ5000の兵を鹿島に集め、一気に香取の海を渡ろうとしますが、忠常が船を隠したために渡ることが出来ません。しかし頼信は水深が浅く馬でも渡れる場所を地元の人間から聞き、一気に大友城に攻めかかりました。頼信の侵入は不可能と見ていた忠常は驚き、勝つ見込はないと諦め、出家して常安と改め降伏しました。頼信は降伏した者を罰する必要はないと寛大な処置をとりました。
長元4年(1031年)4月、頼信は忠常の投降について報告、忠常とその子二人らを率い入京するというものでした。頼信は忠常を同行し都に向かいましたが、忠常が美濃で死去したため、斬首した忠常の首がもたらされ、この功績により頼信は美濃守に任じられました。後に忠常の子・常将は、源氏のとりなしによって許され、父の遺領を受け継ぎ大椎城に戻り、この頃、常将は千葉を氏としたと言われています。
戦の後の亡国・房総
平忠常の乱の3年後の長元7年(1034年)10月に、上総介となった藤原辰重(時重)は右大弁の源経頼を訪ね、乱後の上総国の状況を語っています。それによると、乱の影響により国内の田畑の荒廃は著く、本来の田数2万2984町に対し、乱が終わった年の長元4年に耕作された田はわずか18町にすぎませんでした。将門の乱でもこれほどの被害は受けませんでした。辰重が着任した時点で50町であった耕作面積は年々増やされ、長元7年現在で1200町余としています。そのため、他国に逃れていた人々が帰国するようになったと言っています。自分の功績を強調した部分もありますが、乱による荒廃の凄まじさが示されていると言えます。
乱の影響は上総国にとどまらず、下総でも同様、下総守為頼の妻と娘が路傍で憂死するほど国中飢餓にせまられており、「亡弊ことに甚だし」と『小右記』にあります。
戦乱の終息の最大の理由を房総の地の疲弊によるものという説もあるほどで、戦乱の舞台となった安房、上総、下総は「すでに亡国」であったと報告されています。
平忠常の乱の結果、2つの平氏と坂東の覇権を目指た貞盛の流の平氏の立場が確立されることはなく、功績を挙げた源頼信の坂東進出と、彼の源氏の棟梁としての足場が確保されることになりました。
この後、100年ほどは房総に大事件は起きていません。忠常の子・常将(常昌)に始まる房総平氏一族の武士団が荒廃の極にあった地の再開発につとめ各地域で主導権を握っていました。
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