房総の歴史 占領と民主化
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GHQによる占領政策
 連合国軍に占領された日本は、各方面で軍国主義の排除と民主化への動きが急速に進みました。8月にアメリカ軍が富津、館山に上陸したのを始めとして県内各地に展開、日本軍の武装解除と軍事施設の接収などを行いました。10月に千葉市に進駐し、県庁本館2階に入った部隊は24年11月まで駐屯しました。その任務は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令が守られているかどうかを監視することです。中佐級の軍政部長と将兵40人からなり、知事と毎週定例会見を持ち、県内各地の工場、学校、港湾施設などを視察し、経済、公衆衛生、教育など多方面にわたって直接こまかな行政指導を行い、知事を呼びつけて供出米の成績不振を詰問したこともあったと言います。

女性村長
 GHQの指事は従来の日本人の考え方とは全く違うものでした。政治では、男女平等に参加でき、従って選挙によっては女性議員や市町村長が誕生してもおかしくないことになります。現実に安房郡神戸村(館山市)で千葉県初の女性村長・早川ミタが誕生しました。しかも村長としての手腕を発揮し注目されました。
 女性の参政権が認められた戦後初の総選挙は昭和21年(1946年)4月に行われ、ただ一人の女性候補・竹内歌子は当選しました。翌年4月の総選挙では全国的に社会党が第一党に躍進、今回も女性議員の誕生を見ました。同月の知事選挙では長く県会議員を務めた旧政友会系の川口為之助が当選、初の公選知事となりました。

民主化
買い出し客
 昭和22年(1947年)5月、日本国憲法が施行され、地方自治法も施行されました。物資不足と急激な物価上昇により生活は窮迫していました。総武本線沿線は東京から近い上にサツマイモ、魚、醤油の産地であることからも、都内からの買い出し客が殺到。鉄道は、敗戦直後のため車両不足に石炭不足。乗車券の販売制限もありましたが、車内は超満員、屋根に昇ったり機関車にしがみついたりで、列車の揺れで振り落とされたり、陸橋に頭をぶつけ即死する事故もありました。生活はかなり混乱していましたが、その一方で自由で民主的な国家建設への期待も高いものがありました。
 昭和22年3月の教育基本法制定により教育改革も進みました。教育勅語の無効が決議され、教育委員会が発足、学校教育法による六・三制は千葉県では昭和22年5月からスタートしました。
 農地改革では小作地を買収し小作人に引き渡し、昭和25年には県内全耕地の50%を超えていた小作地は12%にまで激減しています。地主を中心とした農村社会は姿を消し、自作農民が中心となっていきます。

キャンプ・カタカイ
 昭和23年4月9日、アメリカ軍は高射砲の射撃訓練のため九十九里浜に対空射撃演習場を作りました。場所は山武郡豊海町(九十九里町)の海岸で「キャンプ・カタカイ」と呼ばれていました。高射砲は120mm砲と90mm砲が8門で、演習が始まるとその爆音で魚群も逃げてしまい、漁船の出漁は午前中だけに限られ、学校の教室では先生の声も聞こえない等、生活の障害となりました。
S20年代の千葉街道 この高射砲射撃訓練は昭和32年5月まで続きました。

川崎製鉄
川崎製鉄 昭和25年(1950年)6月に始まった朝鮮戦争の特需景気の中、11月に千葉県と千葉市は川崎製鉄の誘致に成功しました。敷地は千葉市蘇我の旧軍需工場埋立跡地で、ほぼ無償で提供され5年間の事業税、固定資産税の免除なども約束されました。埋立地は更に拡張され、昭和28年に操業を開始しました。
 川鉄の進出は、臨海部への工場立地のきっかけとなり、昭和29年には東京電力の進出が決まり、昭和34年に川鉄の南側の埋立地に東洋一の出力60万キロワットの火力発電所が出来ました。(左写真は埋立地に進出した川崎製鉄)

大規模な埋立工事埋立て
 右上の写真は昭和20年代の埋立前の国道14号線です。すぐ隣りまで海岸線がせまっているのがわかります。昭和30年代に入ると遠浅の海は次々に埋立てられ大規模な開発が進みました。
 一方、右の写真は埋立中の写真です。ずっと沖までの大規模な工事であったことがわかります。
検見川海岸の埋立工事 検見川海岸の埋立て工事は、昭和放水路掘削の土砂を使用しました。左の写真はその土砂を海に流し込んでいるところです。周辺の海の様相が一変する歴史のひとこまです。
 現在の美浜区は全てこの時の埋立によって出来た土地です。この広大な土地の多くは住宅地で、幸町団地、真砂団地、磯辺団地等、区画整理された巨大都市となりました。幕張メッセやマリンスタジアム、ポートタワーも、大正時代には海だった場所になります。

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