|
大化の改新
大化の改新で中央集権が本格化すると11の国造は廃止されて、上総、下総の2国に分けられ国府が置かれ、後に上総国から安房国が分離しました。国使を派遣し、人口調査や校田を実施、房総にはミコトモチという使者が遣わされました。
670年、庚午年籍という戸籍が作成され、689年には浄御原令の戸令に基づき庚寅年籍が作られます。原史料は現存していませんが、浄御原令の時代の藤原京で「己亥年十月上挟(かずさ)国阿波評松里」という木簡が出土しています。上総国安房郡で、己亥年は699年です。
古代から、東海道は相模-上総-下総-常陸のルートであったため、房総には中央からの文化活気がもたらされました。特に内湾に面した小糸川、小櫃川、養老川流域は中央文化移入の窓口として早くから開けていました。この時代では、壬申の乱に敗れた近江朝の大友皇子の落去伝説が語り伝えられています。(詳しくは大友皇子落去伝説のページへ)
国府
大宝令が完成すると国郡里という地方行政組織が出来、国には国司が政務をとる国庁と国府、郡には郡家が設置されました。上総国府は現在の市原市に、下総国府は市川市国府台に、安房国府は三芳村府中にありました。
国分寺・国分尼寺
白鳳時代には寺院の建設が全国的に広がり、奈良・平安時代へと受け継がれていきます。千葉の古代寺院跡は40数カ所確認され、伽藍配置、瓦の文様などから建設年代やその後の変遷を知ることが出来ます。下総・上総・安房でも系統の違いが見られ地域色があります。
8世紀には聖武天皇の勅により上総、下総に国分寺、国分尼寺が建てられ、遅れて安房国分寺も建立されます。下総国分寺は市川市国分町、上総国分寺は市原市惣社、安房国分寺は館山市国分にありました。
龍角寺
岩屋古墳の近くにある龍角寺は東日本で最も古い寺院ですが、現在は金堂と塔の礎石跡等を残すだけになっています。岩屋古墳を築いた印旛地方の豪族が畿内の有力者と結びつき、仏教をいち早く取り入れ、その勢力を広げるために一族の寺を建てたものと思われます。
塔跡の北西に瓦を生産した窯跡があり、「加刀利」などの文字瓦が出土しています。五斗蒔瓦窯跡でも文字瓦は大量に出土しており、「朝布」「赤加真」「玉作」などで、絵模様も含めると1800点を数えます。
龍角寺の創建時期は7世紀後半で、640年代〜670年代と思われます。大化の改新直後にあたり、東国への寺院普及は早かったといえます。龍角寺は、大化の改新後に右大臣となった蘇我倉山田石川麻呂が建立した山田寺と関係しています。山田寺式の瓦が葺かれており、伽藍配置は法起寺式とされています。
印波国造
下総地方には下海上国造と印波国造がいました。古墳の分布を見ると、下海上国造代々の墓は小見川古墳群
にあり、印波国造代々の墓は龍角寺古墳群の浅間山古墳・岩屋古墳、公津原古墳群 の瓢塚古墳・天王塚古墳・舟塚古墳などであったと推定され、これらの古墳の形態からみて古い順に並べると
瓢塚、天王塚、浅間山、舟塚、岩屋となり、印波国造の地位は公津原古墳群の勢力と龍角寺古墳群の勢力との 間で交互に継承され、世襲化されていなかったと考えられます。印波国造を支えていたのは古墳を築造した
小豪族や有力農民たちです。7世紀には豪族ばかりでなく、有力農民にも古墳を作る力がありました。
香取神の勧請
平城京の時代、藤原氏が春日神社に鹿島・香取の神を勧請して祭神としました。このため香取神宮は重要な神格の地位を得ました。『大鏡』では藤原氏の祖・中臣鎌足を常陸出身としており、春日神社への勧請もそのためと思われます。
「千葉」の由来
「千葉」という地名の由来は、「多くの葉が繁茂する」の意で、たくさんの草木が生い茂る原野だったからとも、繁栄を願っての地名だともいわれています。
『古事記』『日本書紀』では応神天皇が大和から近江に向かう途中、山城の宇治野の上から葛野をのぞんでの国見の歌に「千葉」という言葉が出てきます。葛の葉がよく繁茂することから葛の枕詞として用いられたのではないかといわれています。
『万葉集』では、天平勝宝7年(755年)、下総国千葉郡出身の防人・大田部足人の讀んだ、
「千葉の野の児(この)手柏の含(ほほ)まれどあやにかなしみ置きて高来ぬ」
(千葉の野の児手柏の葉が開ききっていないように、若くあどけない彼女が何とも痛々しく、手もふれずはるばるやって来た)
が最も古い「千葉」の名だと思われます。
真間と遊女
宮廷歌人の山部赤人が東国に旅に出て下総国府と駅家に寄った際、伝説的な娘子「勝鹿(葛飾)の真間の娘子」の墓を見ようとしたことが『万葉集』にあります。
「古にありけむ人の倭文機(しつはた)の帯解き交へて廬屋(ふせや)立て 妻問ひしけむ葛飾の真間の手児名(てごな)が奥つきを こことは聞けど真木の葉や茂りたるらむ松が根や遠く久しき言のみも名のみ我は忘らゆましじ」
という歌です。「帯解き交へて」とあるので、多くの男が手児名と性愛の機会を持ったと思われます。
真間は崖を意味する「まま」のことで、国府台台地の崖線がこれだと思われます。さて、手児名という美女は赤人以外にも『高橋虫麻呂歌集』で出てきます。複数の男が争った美貌の持ち主で『高橋虫麻呂歌集』によると、そのために入水したようです。手児名は遊行女婦説もありますが、よくわかりません。
遊行女婦は「うかれめ」とも呼び、国府周辺にいる職能的集団で、国司が開く宴等で歌舞を行ったりします。中には『万葉集』に歌を残した教養のある女性もいました。宴の後、参加した官人と性的関係を持つことも少なくなく、『高橋虫麻呂歌集』に出てくる上総の末(周淮郡)の珠名娘子も遊行女婦だと思われます。この遊行女婦が後の遊女に変化していくとされています。
駅と交通
8世紀には東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道の7道が整備されています。30里(約16キロ)ごとに駅家が置かれ、駅鈴を所持した駅使と呼ばれる使者が駅馬を利用し地方との連絡をしました。
房総地方の駅家は、内房沿いに南から、白浜駅-川上駅-大前駅-天羽駅-藤潴(ふじぬま)駅-嶋穴(しまな)駅-大倉駅-河曲(かわわ)駅-浮嶋駅-井上(いかみ)駅となっています。また、河曲駅から常陸方面へ鳥取駅-荒海駅経由で石岡に至る本路、河曲駅-鳥取駅-山方駅-真敷駅から香取神宮に向かい、霞ヶ浦の北側を通り石岡に至るルートがありました。この他後に、茜津(あかねつ)駅、於賦(おう)駅が下総国に設置されています。
参考までに簡単に現在の地名との比較予想を列挙しておきます。白浜(館山市)、川上(富山町)、大前(富津市岩瀬付近)、天羽(富津市湊付近)、藤潴(木更津市下望陀付近)、嶋穴(市原市島野)、大倉(市原市八幡)、河曲(千葉市中央区本千葉)、浮嶋(千葉市花見川区幕張)、井上(市川市)、鳥取(佐倉市神戸)、荒海(成田市荒海)、山方(成田市郷部付近)、真敷(成田市南敷付近)、茜津(柏市)、於賦(我孫子市新木)です。遺跡として確認された例はありません。
当初は相模国から浦賀水道を横断し、安房国白浜から北上するルートが一般的な東海道でした。
太守
天長3年(826年)9月、上総・常陸・上野の3か国の守(かみ)に親王を任ずる制が始まり、正四位下相当の勅任の官とし、太守と称されました。この制は淳和天皇の一代に限ることとされますが、実際はその後150年間も続いています。なぜ上総なのかはよくわかりませんが、親王任国が親王に対する経済的擁護であったと思われ、国司の配分である公廨稲に際し、出挙稲数の多い大国であったからだと推察出来ます。
配流の地・安房
神亀元年(724年)、配流地が定められ、伊豆、常陸、佐渡、隠岐、土佐とともに安房国が遠流の地に選ばれています。この他、中流の地に諏訪と伊予、近流の地に越前、安芸となっています。流される者は犯罪者だけでなく、政治的敗者もいました。
|