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安房と総の国
四国の阿波(大昔は伊予と阿波しかなかった)の宮から忌部氏を率いた天富命(アメノトミノミコト)が房総半島に移り、この地で麻の栽培に成功、「総(ふさ)の国」とし、忌部氏の居住地に同じ「あわ」という名をつけました。安房神社は忌部氏の祖である天太玉命を祀っています。
総の国は後に上総と下総、さらには安房の3国に分かれますが、南部が上総、北部が下総であることからも、西国からの移住や開拓が黒潮に乗って海岸部から始まり、都に近いと認識されていたことがわかります。
また「房」も「総」も、「麻」と「総」の関連を示す他の史料はありませんが、ともに花や実などが茎や枝にむらがりつき、垂れ下がる状態を示す古語「ふさ」に当てる字で、麻や粟などの産物の豊かな地を示しているか、豊作を祈っての国名とも考えられ、四国の「阿波」も元々は「粟」から来ているのかもしれません。(千葉の語源について独自の研究がありますので、参照して下さい)
安房大神
安房大神は安房神社に鎮座する神で、平安期には安房国一宮でした。令制の安房郡の時期には神郡で、神主は安房国造がつとめました。安房国造の任命に際しては、出雲国造、紀国造とともに特別の任官方式がとられていました。東国では鹿島神につぐ扱いで、香取神を上まっていました。
安房大神は天平2年(730年以後)、中央官庁の大膳職で御食津神(みけつかみ)として祀られ、安房の女性集団が祭祀のために上番していました。これは贄としてアワビが献上されていたせいかもしれません。このように朝廷にとって特別な意味をもった神社でしたが、8世紀前半に地位を低下させています。これは忌部氏の没落と関係があるかもしれません。
香取神宮
鹿島神宮とともに日本屈指の名社です。神武天皇18年の開基と伝えられ、延喜式神名帳にも名神大社として名前を残しています。祀神は経津主命です。古来から武神として尊信を集め、鎌倉時代までは20年ごとに社殿の造替が行われるしきたりになっていました。源頼朝や足利尊氏の寄進状も現存します。
阿波忌部氏に続いて神八井耳命の血を引く肥後国造一族の多氏が西上総に上陸し、農業開拓を行い、そこから常陸に進んで香島に社(鹿島神宮の原型)を築き、また出雲系の拓殖氏族が香取神宮の原型をそれぞれ農耕神として祀ったとされます。
右の地図を見てもわかるように、香取神宮の兄弟社ともいえる香島(鹿島)神宮は香取の海を挟んだ両側にあり、まるで要塞のような位置です。東国において極めて重要視されている香島と香取は、古代において東国進出の基点だったのかもしれません。
『日本書紀』では天の悪神・天津甕星を誅する神・斎主神(いわいのかみ/『古語拾遺』では経津主神)とされています。
椿の海と香取神
現在の干潟町には、江戸時代初期頃まで椿の海という大きな湖沼がありました。椿の海にまつわる伝承があります。遠い昔、大きな椿の木が生い茂り、悪い神様が住んで住人を困らせていたので、香取の神が征伐をしました。悪い神が敗れて逃げる時に椿の木を引き抜き倒して行ったので、その穴が椿の海となったというものです。
景行天皇
『日本書紀』によると景行天皇の53年、「上総国に至りて海路より淡水門(安房の湊)を渡りたまふ」とあります。当時、三浦半島から海路上総国に至っていたことがわかります。
ヤマトタケル
『古事記』や『日本書紀』の神話にヤマトタケルノミコトの活躍の話しがあります。ヤマトタケルは景行天皇の子です。大和に従わない九州のクマソタケルや出雲のイヅモタケルを討つ英雄伝です。このあと、ヤマトタケルは東国遠征に向かいます。
東国遠征の目的は、やはり大和に従わない蝦夷(エミシ)、土蜘蛛(ツチグモ)を従わせるためです。両者ともひどいネーミングですが、大和側には面白くない存在の縄文系種族でしょう。九州のクマソ等はこの後比較的早く大和の傘下に入りますが、東国は10世紀になるまで完全に配下に入ったとは言えないでしょう。
走水の海
ヤマトタケルは駿河から相模に入り、三浦半島から船で房総半島に渡ります。このルートは古代・東海道の重要なルートで、終着地は常陸の国です。
房総半島への渡り道、走水の海は流れが早いことからつけられた名で今の浦賀水道です。一向は走水の海で激しい嵐に見舞われます。海神の怒りをしずめるために、ヤマトタケル最愛の弟橘姫(おとたちばなひめ)が入水して難を逃れます。『古事記』では海に畳をひいたとあり、神聖視していたことが伺えます。姫が入水するとそれまでの嵐が嘘のように静かにおさまりました。海岸には姫のクシが流れついたといいます。古代、クシには魂が宿ると言われています。流れついた弟橘姫の衣を納めて建立した吾妻神社があります(木更津市)。「吾妻」も、ヤマトタケルが蝦夷から帰る途中、懐かしい走水の海が見えた時に「あ(我が)妻はや」と言ったからとされています。
君さらず、袖しが浦に立つ波
「君さらず袖しが浦に立つ波の その面影を見るぞ悲しき」
房総に渡ったヤマトタケルノミコトが弟橘姫を偲んでうたったものです。その場所は現在、太田山公園(右写真は2人の像が向かい合うきみさらずタワー)になっています。「木更津」「袖ヶ浦」の地名はここから来ていると言われています。
タチバナは霊果とされる樹木で『日本書紀』の垂仁紀では永遠不変、不老長寿の国とされる常世国にタヂマモリを遣わしその果実を探す伝承があります。そのタチバナを名前に持つ女性なので、巫女的性格が強かったと推定されます。
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