房総の歴史 室町時代
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建武の新政
 元弘3年(1333年)、足利尊氏が京の六波羅を、新田義貞が鎌倉を攻め、北条氏を倒し鎌倉幕府は滅亡、隠岐から帰った後醍醐天皇による建武の新政が始まります。新政実現のため所領安堵は綸旨のみで行う「個別安堵法」が発布されますが、間もなく所領安堵を国司の国宣に委ねる「諸国平均安堵法」が発布されました。それにもかかわらず、下総では8月23日付、下総光福寺(香取市)あて寺領安堵の綸旨が発給されました。これは下総が事実上尊氏の影響下にあり、国宣では実効性がなかったからだと考えられます。当時の下総国司は『太平記』では尊氏が武蔵・常陸と合わせて任命されたとありますが、文書史料では確認できず、むしろ千葉介貞胤が実権を握っていたのではないかとされています。

2つの千葉氏
 千葉氏の内部対立は、鎌倉時代中期の頼胤の子・胤宗と宗胤に始まりますが、従兄弟にあたる千葉介貞胤は千葉荘、庶家千田(ちだ)胤貞は千田荘(多古町)を舞台に活躍し、鎌倉幕府滅亡を機に対立を激化させていました。
 後醍醐天皇による建武の新政が政策の行き詰まりから足利尊氏ら武家勢力との抗争を招き、動乱期に入ると両千葉氏もその大きな渦に巻き込まれていきます。
 千葉貞胤は、後醍醐天皇が建武元年(1334年)宮中で安鎮法を修した際、南庭の左方の警固を命じられています。天皇が千葉氏に関東大名の筆頭たる家格を認めた結果と言えます。千葉氏は南北朝の動乱では、後醍醐天皇方の先兵となった新田義貞の軍に属し、足利尊氏追討のため東下し、駿河手越河原では足利直義勢を破っています。しかし建武3年(1336年)、京での戦いに敗れ、嫡子・高胤(一胤)を失い、北国落ち、越前木目峠(福井県敦賀市)で斯波高経の説諭により尊氏に降伏しました。
 一方、千田胤貞は尊氏の挙兵に応じています。一旦は敗れ九州まで逃れますが、所領の肥前小城郡の領民も率い、延元元年(建武3年/1336年)、多々良浜合戦(福岡市)に参加しました。
 千葉貞胤、千田胤貞ともに下総を離れ、全国を転戦している間に事件は起きます。建武2年(1335年)、千田胤貞は千葉楯(館)へ攻撃をかけ、千田荘内でも大規模な合戦が起こりました。これは両者による争いだけでなく、相馬親胤など、一族諸氏や在地の中小武士(円城寺、次浦氏ら)をも巻き込んだもので、得宗専制支配下での不満が爆発したものでした。この対立は、建武3年に千葉貞胤が足利尊氏に降伏し、一方の千田胤貞が同年、三河で病死したことにより収拾しました。
 この結果、千葉貞胤は千葉氏宗家の地位と下総守護職も守り、後に伊賀や遠江び守護職にも補任されています。これに対して、千田胤貞の系統は独自に幕府に結びつき権力回復をはかりますがうまくいかず衰退の一途を辿りました。また胤貞の猶子・泰胤が肥前の小城郡で肥前千葉氏として土着する道を選びました。

鎌倉府
 足利尊氏の次男・基氏が鎌倉に入り、以降鎌倉府が関東10か国を管轄することになります。関東管領には基氏の信任の厚い上杉憲顕(のりあき)が補任され、以後、上杉氏が世襲していきました。千葉氏は佐竹、小山、結城、宇都宮、小田、那須、長沼等の「関東八屋形」の中でも侍所頭人に補任されるなど、一段格上の存在でした。永徳元年(弘和元年/1381年)以降の下野国の小山義政の乱鎮圧にもその先兵となり活躍しています。
 しかし、鎌倉府は千葉氏の領国支配拡大の動きに対して抑制策を取り続け、千葉氏胤の時に得た上総守護職も、その後佐々木道誉、世良田義政、新田直明、上杉朝房と変遷を辿り、最終的には上杉氏による世襲となります。

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