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文明開花、
県都・千葉町には県庁舎、県議事堂、銀行、病院、師範学校等が次々と建設され、新聞、郵便、電信事業が始まり、明治4年(1871年)の散髪脱刀令により奨励された断髪は、官員、区戸長。教員などから普及しはじめ、まさに千葉の文明開化となりました。
明治5年(1872年)11月9日には改暦の詔書が出され、太陰暦から太陽暦への変更を実施するため、同年12月3日を明治6年正月とすることに定められました。12月に入ったと思ったら、翌日の2日は大晦日。そしていきなり正月となったことで、日常生活には混乱が起こったといわれています。暦に関してはこの年に祝祭日も制定されました。元始祭(1月1日)、紀元節(2月11日)、天長節(11月3日)などです。
右の写真は明治44年に出来た千葉県庁舎です。地下1階、地上2階建てでルネッサンス風の様式の鉄骨レンガ造り、柱とアーチには大理石を用いていました。
自由民権運動
明治11年(1878年)7月、郡区町村編成法等が制定され、これにより大区・小区が廃止され、郡町村が行政区画として復活しました。官選の郡長と公選の戸長がおかれ、初めての公選議会として府県会が発足しました。明治13年には町村会の開設も認められています。この頃から自由民権運動は国民的な広がりを見せ、千葉県においても自由民権や国会開設が広く論じられるようになりました。県内各地で政談演説会や討論会、有志者懇親会が開かれ、50社を超える民権結社が組織されています。千葉県の代表的な民権結社である夷隅郡の以文会が創立したのもこの頃です。
高揚する運動に対し、政府は取り締まりを強化、隔日発行で言論集会の自由や国政批判の論説等を掲載していた『総房共立新聞』が明治15年10月に廃刊に追い込まれました。以文会は県内自由党勢力との相互連携につとめ、明治17年10月、大阪における自由党解党大会には幹部が解党反対を力説しました。しかし同年末、いわゆる夷隅事件が起き主要メンバーが逮捕され、同時期の安房事件の影響も含め千葉県の民権運動は大きく後退することになりました。
憲法発布と総選挙
明治20年(1887年)になると再び全国的に自由民権の政治熱が蘇ります。千葉県でも有志が集まり南総懇親会が開かれたのをはじめ、各地で演説会や懇親会が開催されています。
明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法が発布されました。千葉町をはじめとする各地で憲法発布の祝賀会が開かれました。憲法発布の前後から各地で政治倶楽部が結成されています。これはきたる衆議院選挙を見越してのものです。旧自由党系の政治家が活発に運動を開始、立憲改進党の政客も各地で演説会を開きました。
明治23年(1890年)7月1日、最初の衆議院議員選挙の投票が行われました。選挙資格は直接国税15円以上を納める25歳以上の男子に限られていたため、有権者は県人口の1.4%にすぎませんでした。
日清戦争
明治27年(1894年)8月、日清戦争が起こります。開戦とともに義勇兵として出征したいと願い出る者があり、軍事公債の応募、出征する兵士の見送り(右写真)、出征した兵士の家族の慰問など、国民意識は大きく変わりました。千葉県も例外ではなく、佐倉連隊が第一師団第2軍に編成され、金州や旅順等の主要な戦闘に参加、新聞は大きく取り上げて報道しました。この戦争での千葉県出身の戦死者は290人でした。また佐倉連隊は国際的な問題となった旅順虐殺にも関わっています。
戦争後、政府は軍拡、産業振興などの戦後経営を推進するために政党との提携に踏み切りました。地方政治でも政党の役割が大きくなり、県会における多数派形成を軸に県政が動くようになりました。千葉県では明治31年(1898年)に阿部浩が知事に就任し、県会の有力議員である東条良平が議長となると、阿部知事と提携し政友会系議員を結集して県政をとっていますが、選挙区内に県立中学校を新設したり、町村への補助金をつけたり、多数派の横暴と見られる政治も横行しています。
日露戦争
明治37年(1904年)、今度はロシアとの間で日露戦争を闘うことになります。1年半の期間、100万人の軍隊を動員、莫大な戦費を消費する戦争となりました。開戦直後、政府は地方行政の基本方針として、不急不要の事業中止の緊縮政策をとり、国民に勤倹貯蓄を勧奨、軍事公債に応募するよう要請しました。千葉県は臨時県会を開き、明治37年度予算を大幅に減額修正し、38年度予算も緊縮財政とし、戦争を全面的に支持、協力する意志を表明しました。各町村でも納税組合や貯蓄組合を組織し、税金の完納や軍事公債の応募資金を用意しました。また自主的に青年団を組織し独自に出征家族の援助活動等に取り組んだり、愛国婦人会も軍人援護事業を中心に積極的な活動を見せました。(写真は日露戦争戦死者の村葬/茂原信行寺)
佐倉連隊は第2軍に所属、遼陽の会戦に参加し、第3軍が編成されると旅順攻囲戦に従軍しました。兵士たちは多くの日記や家族に宛てた手紙を残しており、当時の激戦の様子を伝えています。日露戦争での千葉県出身の戦死者は2073人に上りました。
産業の発展と鉄道
戦争が増税や巨額の軍事公債によってまかなわれたため、日本経済の景気が悪く千葉県も例外ではありませんでした。しかし千葉県知事・有吉忠一は、前知事の緊縮政策を切替え、各地から鉄道の要求には千葉県に誘致した鉄道連隊の遊休資材や技術を利用し軽便鉄道を敷設したり、農業・漁業の振興策に取り組むなど、積極的な県政を推進しました。
明治期後期になっても、人間や商品の流通は江戸時代以来の道路と利根川の水運、東京湾海運に依存していました。しかし鉄道の敷設は流通方法に変化をもたらしました。
明治20年(1887年)、2つの鉄道敷設計画がありました。本所から市川、千葉、佐倉、成田、佐原の武総鉄道 と本所、市川、千葉、佐倉、八街、八日市場、銚子の総州鉄道の計画です。しかし千葉県は水上交通が発達しているため、無理をして鉄道を敷かなくても良いとされていました。その後、軍隊を輸送するのに鉄道はなくてはならないことが西南の役で証明され、陸軍の諸施設のある佐倉、下志津(四街道)、習志野、国府台を結ぶ鉄道敷設が決定しました。
明治22年に総武鉄道会社が発足し、武総鉄道、総州鉄道の代表者であった伊能権之丞、安井理民の他、県政界の有力者 を加え、また佐倉の先は八街へ至り、利根水運とは競合しないということでようやく許可されました。
しかし当時の鉄道に対する認知度は低く、「ニワトリが卵を生まなくなる」「若者が近くの街に遊びに行き働かなくなる」「汽車の煙が桑の葉についてカイコが死んでしまう」等の理由から駅は出来るだけ町のはずれやよその村の人の住んでいない所に作られる傾向がありました。飯岡駅、横芝駅などはその典型例です。様々な問題を解決し、明治27年に東京市両国から千葉を通り佐倉までが開通しました。
仁王尊の門前町として繁栄していた芝山町では、鉄道開通により客足が止まらなくなるとして鉄道延長の 反対運動を起こし、路線が芝山を避けることに決定すると町をあげて祝いました。
また日本鉄道の海岸線は上野から土浦、水戸を経て東北方面に向かう路線でした。東葛飾県庁として、また水運の都として繁栄した流山を通る計画でしたが、やはり住民の、特に水運関係者の猛反対にあい、路線は北千住から大きく迂回して金町、松戸、柏を辿ることとなりました。ところが開通間もなく、大量輸送の鉄道は水運の衰退を早め、流山の住民は一転して鉄道有用論に変更、流山から馬橋まで軽便鉄道が建設されています。
明治30年までには両国から銚子町までの総武鉄道が開通。房総南部への敷設は、水運の良い内房側は 関心が薄く、陸運の不便な外房方面から建設を望む声が上がりました。蘇我、大網間を開通させていた房総鉄道
は蘇我から総武鉄道の千葉まで延長し、外房からの利便をはかりました。
総武鉄道は佐倉、成田、佐原への鉄道建設を申請しましたが、同時期に成田山貫主・三池照鳳と信徒らを発起人 とした下総鉄道会社も同様の鉄道敷設案を申請していました。知事のすすめで両会社は協定し、下総鉄道が着工、
下総鉄道は後に成田鉄道に改称しています。
この時代の房総の鉄道は、総武、房総、成田の3私設鉄道会社によって運営されていました。相互乗り入れのより 利用者の便をはかったこともありましたが、過剰な自社の利益追求から公共機関として好ましくない対立も
ありました。日清・日露戦争を契機に高まる国防上の見地からも鉄道の国有化の必要性が叫ばれ、ついに明治39年(1906年) 鉄道国有法が制定、3会社とも国に買収されました。
明治年間に佐倉から成田、佐原まで、大網から成東、千葉から大網、一宮、大原の房総東線、千葉から蘇我、姉ヶ崎の房総西線、成田から安食、我孫子が開通しています。
東京府に接続する地域や鉄道沿線では、いち早く新しい生活様式や風俗にそまり、特に千葉町は内房、外房への中継点であることからも経済の中心地として急速に都市化が進みました。また、習志野原を中心に拡大した陸軍諸施設の展開があり、佐倉の連隊施設とともに首都周辺部の軍事的配置に適合した軍都・千葉としての特徴が付加されていきました。
Georges Bigot「稲毛海岸」(1903)
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一方、かつて船便で栄えた千葉町の寒川港、登戸港はさびれていきました。また成田鉄道の開通により 成田山の参拝客は増加しましたが、賑わいを見せていた成田街道沿いの宿場のさびれ方は目を覆うばかりでした。
一方、利根川や江戸川を利用して銚子と東京を結ぶ水運は航行時間を短縮して鉄道に対抗しましたが、 結局は銚子と本所を5時間足らずで結ぶ鉄道の敵にはなりませんでした。
農業の風景
東京府からの影響の強い町が近代化される一方、明治36年(1903年)に内務省が山武郡源村(東金市)を宮城県生出村、静岡県稲取村などとともに模範的な村政として取り上げられ、大きな刺激となりました。源村は村内にあった対立を解消し、村の振興のため勤倹をモットーに村財政の安定、教育条件の改善、さらに各種農事改良に取り組んでいました。また公共団体として印旛郡志津村(佐倉市)の小竹徳会、長生郡豊栄村(匝瑳市)の米満遺風会の活動が取り上げられたり、香取郡多古町や夷隅郡中川村(いすみ市)の耕地整理事業や匝瑳郡共和村(旭市)の落花生栽培への取り組み、佐倉町の堀田家農事試験場の農作物改良、県水産試験場の改良漁船の建造なども注目されました。
野菊の墓
伊藤左千夫の『野菊の墓』が明治39年(1906年)、雑誌『ホトトギス』に掲載されると夏目漱石をはじめ多くの人に賞賛されました。荒川を挟んで松戸と柴又を結ぶ「矢切の渡し」を舞台に、政夫と民子の幼い恋が大人たちに引き裂かれ、民子の死によって終わる物語です。
伊藤左千夫は成東の農家に生まれ、上京して牛乳搾取業を営みつつ正岡子規に師事し、歌人として名を成しましたが、小説にも優れ、上総の農村を舞台にした『隣の嫁』『春の潮』があり、長編『分家』は成東を舞台とし、長塚節(たかし)の『土』と並び高い評価を得ています。
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