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高望王
寛平2年(890年)、桓武天皇の曾孫にあたる高望王が平姓を賜り、従五位下上総介として房総に入りました。上総国は常陸国とともに親王国とされ、国の長官には親王が任命されていましたが、特に任地に赴任する義務はなかったので、実際にはその下にあたる「介」が長官の役割を果たしていました。高望王は上総に入り私営田の開発をすすめ在地豪族を身内にして強力な地盤を形成し、私営田は上総に留まらず下総、常陸国にも広がりました。
すでに律令制による班田収授法は崩れ、貴族や有力寺社による荘園経営が進められていました。高望王が私営田の開発に成功したのは、桓武天皇の曾孫であるということで尊敬されたためでもあります。
荘園
平安時代から鎌倉、室町時代にかけて、房総各地に荘園が開発・寄進されています。荘園にはその所有者が経営するため倉屋を含む事務所のようなものを設置し、荘官を置きました。この事務所を庄、または庄取所といったことから、その土地を「◯◯庄」と呼ぶようになりました。
平将門
平将門は下総国豊田の里(茨城県)で鎮守府将軍・平良将の子として産まれました。良将は桓武天皇4代目・高望王の3男です。長男・平国香は常陸国を、次男・平良兼は上総国を治めていました。平良将が死ぬと国司の平国香が下総を預かりますが評判は悪かったようです。
918年、将門は都に赴き左大臣・藤原忠平に仕え、約10年を過ごしています。国香の子でライバルの平貞盛も都で右大臣・藤原定方に仕えています。
領民に慕われる
930年、将門は下総に戻ります。毛野川(鬼怒川)の治水工事等で各地を開墾しました。高まる将門の人気とは裏腹におじの国香、良兼、良正との折り合いが悪くなり国香・源扶(たすく)と戦になっています。続いて良正と戦い、川曲(かわわ)の戦いで敗り、良正は上総の良兼に援軍を求めます。良兼を総大将とし良正、貞盛の数千の大軍が将門を攻めますが、逆に百騎の将門の軍に追い立てられ下野国府へ逃げ込みました。承平6年(936年)、源扶の父・護(まもる)は朝廷に訴え将門は都から呼び出されますが翌年大赦にあい帰国しています。
937年、子飼の渡(小貝川)で再び良兼軍2千と戦いますが初めて敗れました。しかし、この後の戦いで鬼神のような働きで将門は再び勢力を盛りかえします。武蔵、上総、常陸の国府に対して良兼、源護、貞盛を捕らえる命が出されます。信濃国千曲河原で貞盛と戦いますが逃してしまいました。このあたり、両者の争いは一進一退を続けています。
同じ頃、武蔵国でも一つの事件が起きています。武蔵国の国司が空白であったため足立郡司の武蔵武芝が代わりを務めていました。天慶元年(938年)、新国司の興世(おきよ)王と源経基が来ます。新国司と武芝との間で戦いが起こったのです。これを将門の仲介で治まりますが、源経基は翌2年に将門の反乱を京へ訴え出ます。太政大臣・藤原忠平は謀反の事実の有無を問いただすため、将門のもとに書状を届けており、これに対して将門は常陸、下総、下野、上野、武蔵の5か国の解文を集め、謀反が事実でないことを言上したとされています。
新皇へ
その間に常陸国で新しい紛争が勃発します。藤原玄明(はるあき)と藤原維幾(これちか)の争いで、将門は仲介するために1000余人の兵を率いて常陸国府に向かいます。しかし、維幾、為憲(ためのり)親子と合戦に及んでしまい、将門軍は東国一の常陸国府を占領し維幾を取り抑えますが国府を攻めた以上、国家に対する謀反をはかったことになってしまいました。ここで将門は関東に独立国家建設を目指します。余りにもひどかった国の守の政治に反感を持つ人達に支持され下野国府を皮切りに各国の国府を次々と攻め落とします。その勢力は常陸、下野、上野、武蔵、相模、伊豆、下総、上総、安房に及び939年12月、上野国の大宝八幡の境内で将門は新皇となりました。下総国猿島郡石井(いわい)郷(岩井市)に王城を営み、弟や部下を文武百官に任命しました。
朝廷から将門追討の命が下り、藤原忠文が征東大将軍に任ぜられ、天慶3年(940年)2月8日に都を出発しています。これに先んじて、むかで退治で有名な俵藤太こと藤原秀郷と平貞盛の大軍と戦いになります。将門は正月中旬に貞盛・為憲を攻撃するために出兵しますが成果を挙げられず、2月1日には秀郷軍に惨敗、13日には秀郷・貞盛により本拠地は焼き払われ、翌14日、幸島(さしま)郡北山で将門は戦死します。その後の厳しい残党狩りで興世王を始め将門の弟達はことごとく討たれました。京に届けられた将門の首は都の東市にさらされました。ただ一人おじの平良文だけは将門に同情的でした。この良文の子孫の千葉常胤は源頼朝に味方しています。頼朝が、貞盛の子孫の平清盛を滅ぼすのも歴史の因縁でしょうか。
藤原秀郷は従四位下、平貞盛は従五位上に叙位され、後に貞盛は鎮守府将軍や諸国の国司を歴任しています。また将門の謀反を最初に密告した源経基も従五位下となり、藤原純友の乱鎮圧の際は大宰少弐に任じられました。このように将門軍を武力で鎮圧した勝者やその子孫は以後中下級貴族となり、武力が必要とされる国家的な事件の際の「都の武者」となっていきます。源経基や平貞盛を祖とする源平両氏はこのような中央軍事貴族の典型であり、このような武門の家柄を生み出したことも将門の乱のもう一つの帰結です。
平良文
後の千葉氏の祖でもある平良文は、将門を養子にしたりしていますが、謎の多い人物です。良文は鎮守府将軍と陸奥守を兼任していますが、将門追討令が出た時が相模国村岡(藤沢市)にいたといわれ、討伐戦には参加していません。手柄を立てたわけでもないのに、なぜか将門の旧領である下総国相馬郡を与えられています。一説には、良文は当初将門に味方したとも言われています。
下総国相馬郡は馬の放牧飼育地で、帰化人の馬飼集団が住んでいました。後に良文から千葉氏へ継承される妙見信仰も、こうした馬の放牧などを行う帰化人が伝えたものかと思われます。
なお、源平争乱期の三浦義澄・土肥実平・畠山重忠・大庭景義・梶原景時・長尾定景・河越重頼・江戸重長・葛西清重はすべて良文の子孫になります。
成田山新勝寺
平将門の反乱を憂えた朱雀天皇は、親族にあたる京遍照寺の寛朝僧正に天国の宝剣を授け、朝敵覆滅の護摩を修せしめました。寛朝は高野山に安置されていた不動明王像を奉持し海路・東国に下りました。九十九里浜に上陸し、下総国の公津ヶ原に安置し、21日間調伏の護摩を修しました。
この時、将門軍を平貞盛、藤原秀郷が包囲しており、満願の日の天慶3年(940年)2月14日、将門は討たれました。戦勝は明王の神力によるものと、天皇が国司に命じて現地にお堂を建立させ、新勝寺と命名されました。
公津ヶ原の不動明王を、その後の戦乱で荒廃したため、永録年間に成田村一七軒党代表の名主が像を背負って、現在の場所に遷座しました。
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