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守護
鎌倉幕府、幕府によって守護が設置されました。下総では当然、常胤が任命され、以後鎌倉時代末まで千葉氏が務めます。
上総では、当初は上総広常が地方長官でしたが、頼朝にうとまれて殺された後は誰が務めていたのか不明ですが、正嘉3年(1259年)の足利頼氏以降、上総の守護は足利氏嫡流が務めています。不明の間も足利氏が務めていた可能性も考えられますが、武蔵の六浦を拠点とし早くから房総にも勢力を持っていた和田義盛であった可能性を指摘しておきます。
和田合戦と宝治合戦
建保元年(1213年)、和田義盛が滅んだ和田合戦では、義盛の配下に属していた上総、安房にも被害が及び、飯富荘、橘木荘などが北条義時、時房らの所領となりました。また三浦胤義に与えられた伊北荘も承久の乱で胤義が京方について敗死した後は北条氏の所領となっています。かつての上総広常の広大な所領の多くはこうして北条氏領となりました。
源氏の将軍が3代で滅びた後、幕府は藤原将軍家と執権北条氏の両勢力の間の緊迫した状況が続いていました。宝治元年(1247年)、三浦泰村ら三浦一族がほとんど全滅した宝治合戦直後、千葉氏一派の千葉秀胤が将軍・藤原頼経支持の名越光時に組みしていたことから討手をかけられ、一族163人が自害しました。これにより千葉一族有数の家が滅び、その旧領は没収、北条氏のものとなります。こうして千葉氏の本拠だった下総にも北条氏が進出するようになりました。
房総開発
文治5年(1189年)、幕府は安房、上総、下総の房総3国には荒野が多いので、浪人を定住させ開発を進めるよう地頭に命令を出しています。
鎌倉中期の暦仁元年(1238年)、下総の熊野山領の匝瑳南条東方では新田を検注させよとする領家側と、これを拒否する地頭・椎名氏(千葉氏一族)とが争いましたが、幕府は、上総、下総両国の地頭が新田を開発しても荘園領主側がこれに介入することは許されないとし、かわりに以後は年貢を祖父の代の倍額とするとしました。年貢の倍額引き上げは地頭の主張したもので、わずか50年余りの間に地頭の主導する新田開発が大きく発展しました。平安時代から房総平氏によって主導されてきた新田開発は鎌倉時代には地頭に引き継がれ、幕府もこれを支えていました。
中世の屋敷群
君津市の小糸川の川沿いから中世の屋敷群が発見されました(三直中郷遺跡)。それぞれ多少の違いはありますが、溝で区画され、掘立柱の母屋を中心に台所兼物置小屋と思われる小さな建物が配置され、井戸が付属しています。現在とあまり変わらない村落の景観があったようです。
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