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江戸湾
徳川家康が初めて江戸に入った時、江戸湾にはクジラが潮を吹いていたといいます。江戸城周辺はかなりの田舎だったようです。それから100年もしないうちに江戸は世界でもトップクラスの大都市になります。
房総勢力図
関ヶ原の合戦後、家康は大規模な改易、転封を実施、房総でも多くの移動がありました。佐倉は武田信吉から松平忠輝へ、小見川に土井利勝が、大多喜には本多忠勝(右像)が配置されました。これにより関東では万石以上の家臣が減り、徳川直轄領と小知行地が増加します。里見氏転封後の房総は、江戸に近い地理条件から幕末まで諸藩の交代や改易が頻繁に行われますが、いずれも親藩、譜代の1〜2万石の小大名が圧倒的に多く、この他、他国の分領、御料所、天領、旗本の知行所、御家人の給地、寺社領等が入り組み、複雑な知行関係になっています。ゆえに武士の支配力が弱く、治安が乱れ、侠客と呼ばれる博徒の出現を見るに至っています。
鷹場と御成街道
将軍のお膝元の関東では、旗本の支配地に鷹場が設定されました。鷹場とは、鷹狩り(鷹を使った狩猟)をする場で、房総には早くから鷹場がありました。中でも上総の東金鷹場は10万石余に及ぶ規模で家康が関東に入ってから最初の鷹場とされています。鷹狩りの拠点となる場所は「東金御殿(現東金高校)」と呼ばれました。東金鷹場での最初の鷹狩りは慶長19年(1614年)で、土井利勝を頭に100人余りが3隊に編成され千葉、東金、佐倉と広範囲に展開されました。
その鷹狩りのために作られた街道が御成(おなり)街道です。船橋からほぼ一直線に東金に向かっています(多くは現在も残っています)。その線上にある約90の村では分担して造成しました。起点である船橋には船橋御殿が、東金御殿との中間点にあたる中田村(現千葉市若葉区御殿町)には御茶屋御殿がありました。
寛永7年(1630年)の秀忠の鷹狩りでは460人を超える規模で、軍事演習と言って良い規模です。御成街道周辺の村では道の保全や植樹、鶏、鴨、雉などの提供や人足の負担、さらには一行のまかないのために高級魚を運んだりと大変なものでした。
3代将軍・家光は鷹狩りの計画はあったものの一度も行われず、寛永11年(1671年)に東金御殿は取り壊しとなりました。5代将軍・綱吉の頃には生類憐れみの令から放鷹は廃止されました。
ドン・ロドリゴ
慶長14年(1609年)、フィリピンからメキシコに向かっていたスペイン船が上総国夷隅郡岩和田村(御宿町)の沖で難破しました。50余人が溺死、300余人が岩和田村の海岸に上陸しました。当時は、フィリピン、メキシコともにスペイン領で、ドン・ロドリゴはフィリピン政庁長官の任を終えてメキシコに帰る途中でした。一行は村内に分宿し、40日近く滞在、領主の本多忠朝(大多喜藩主)がロドリゴのもとを訪れ、滞在中の厚遇を約束しました。
報告を受けた徳川家康は、豊臣勢力を駆逐するために外国貿易の独占的拡大による軍事力・経済力の強化を目指していました。前年にはフィリピン政庁長官・ロドリゴから家康に友好的な書簡がもたらされ、初めてスペイン船が浦賀に入っていました。
遭難者の中にロドリゴがいることを知った家康は、駿府に招いて厚くもてなし、帰国のために西洋帆船を建造、翌年にメキシコとの交流拡大を目指す家康の使節や京の商人・田中勝助ら日本人20人を乗せてロドリゴ一行は浦賀を出航、メキシコに帰りました。2年後にはメキシコから答礼がありました。
元禄大地震
元禄16年(1703年)11月23日深夜、野島崎の南海上を震源とする推定マグニチュード8.2の大地震が起こります。震源に近い場所では震度5〜7と推定されます。この地震により福島から紀伊半島にわたる広い範囲で津波が発生し、高さは4〜8メートルに達しました。房総だけでも4000〜5000人以上の死者を出しています。
被害は九十九里沿岸に多く2000人を超える溺死者が出ました。この時期はイワシの豊漁期のため多くの漁業関係者が海岸近くに納屋集落を作っていたことと、津波が一宮川等の河川を遡り、かなり内陸にまで押し寄せたことが被害を広げました。また安房国長挟郡横渚(よこすか)村の集落・前原(鴨川市)では600余軒の家屋が全て流失し1300人を超える死者を出しました。犠牲者の供養碑が各地に建てられています。
この地震で房総半島南端の大きいところでは地面が5メートルも隆起し、島だった野島は陸続きとなり、以後、野島崎と呼ばれるようになりました。
この元禄大地震以外にも房総近海を震源とする大地震は、慶長9年(1604年)、延宝5年(1677年)、安政2年(1855年)にも発生しています。
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