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利根川と治水と洪水
江戸に近い下総国では盛んに新田開発が行われています。天正18年(1590年)から寛永15年(1638年)にかけての十六島(佐原市)干拓を初め、この時代は房総の景観を大きく変わる大開発時代であったと言えます。
新田開発事業の中で最も重要な課題が利根川の治水でした。江戸湾に流れ込んでいた利根川本流を渡良瀬川水系も合わせ銚子に流す工事にあたったのは関東郡代・伊奈備前守忠次で、3代に渡り65年の歳月を費やしました。
利根川の流れを変えて以降、手賀沼、印旛沼沿岸では水害が多発するようになります。特に寛保2年(1742年)と天明6年(1786年)の洪水は大規模で、各所で決壊し江戸市中にまで水が及びました。
また天明3年(1783年)の浅間山の噴火による火山灰は下総佐倉でも2〜4寸(6〜12センチ)積もるほどで、これらの地域ではこの年の農作物はほとんどとれませんでした。噴火以降、土砂の堆積で利根川の川底は上昇し、文政5年(1822年)の調査によると、平常時でも香取付近から鹿島浦辺りまでのほとんどが水に浸かった状態で、沿岸の広範な地域で米の収穫が3分の1以下になりました。
椿の海干拓
椿の海は九十九里北部の入海が発達した淡水湖で、海上、香取、匝瑳の3郡にまたがって面していました。東西三里(12km)、南北一里半(6km)の広大な湖です。寛文年間(1661〜73年)、この頃幕府は乱開発に伴う災害から、新田開発を無制限に認めない「山川掟」を発令しており、伊奈忠次の検分では許可のおりなかった椿の海干拓を、幕府の大工頭・辻内刑部左衛門を引き込み許可を得た江戸町人・白井次郎右衛門が開発にあたりました。
しかしやがて白井の資金が尽きて請負人からおりてしまい工事は中止となります。諦めきれない辻内が幕閣に影響力を持つ江戸白金台瑞聖寺の鉄牛和尚への働きかけにより再開され、江戸材木商野田市郎右衛門、栗本源左衛門を下請けとして資金を出させ事業に参加させました。
寛文10年(1670年)、井戸野村と仁玉村の間を堀り、湖水を九十九里浜に流します。排水路を開き水を海へ流し始めると、その轟音は一里(4km)四方へ響き渡り、人々は何が起こったかと家から飛び出しました。しかし一度に流れ出した湖水が溢れ出し、周辺は洪水となり、また椿の海から用水を引いていた南部の村は水不足に陥り、田畑は砂地と化してしまいました。この責任をとらされ代官・関口作左衛門は罷免されました。
新開地は延宝2年(1674年)から売りに出されますが幕府勘定奉行への訴訟事件が起きたりし、辻内、野田、栗本は追放処分となってしまいました。
売り出された土地は、営々なる努力の積み重ねにより干拓後25年後、初めて検地が実施され総計2万石余とされました。この土地の呼称は「上代村下椿新田」で、翌年には「万歳村」という固有名詞がつけられています。
手賀沼
江戸時代の初期には我孫子布佐大森に川口と称する水路があり、ここから利根川に通じていました。寛永10年(1633年)に竹袋(印西市)から木下に水路を作り、利根川に通じるようにしました。現在でも弁天堀と呼ばれる遺構が残っています。その後、江戸の商人・海野屋作平衛他17人が幕府の許可を得、寛永12年(1635年)に新田230余町歩が作られています。
享保12年(1727年)、当時評判の伊沢弥惣兵衛為永の設計により再工事を行い、長さ約1.8kmの堤を築いて沼を上下二つに分け排水路を設ける工事は享保14年に完成しました。しかし10年後の洪水で千間堤は崩れてしまいます。翌年再び堤を作りますが、6年後の洪水で再び壊れてしまいました。
さらにその後、老中・田沼意次の命でも作られますが、やはり洪水で流れ、田沼の失脚で計画は中止されました。しかしそれまでに作られていた部分部分は以後もずっと利用され、千間堤は現在も残っています。
印旛沼治水と花見川
椿海干拓と並んで、印旛沼、手賀沼の干拓も計画され、数回試みますが、水害や資金難のため完成しませんでした。
印旛沼周辺は利根川の水量が増えるたびに水びたしになっていました。印旛沼に出口がないからです。伝承によればその昔、平将門も印旛沼の開発を計画したと言われています。江戸時代中期以降、何回か計画が立てられていますが、実際に行われたのは次の3回です。
最初は享保9年(1724年)、千葉郡平戸村(八千代市)の農民染谷源右衛門ら数人が印旛沼の水を検見川(千葉市花見川区)に落とし新田の開発をはかりたいと考え、幕府の許可を得て公金6000両を借りて工事に着手しました。平戸と検見川の間に長さ約10.7kmの掘割を作っている途中で既に30万両の費用を使い、資金不足のため中断となってしまいました。
第2回目は、天明3年(1783年)、浅間山の噴火の火山灰で利根川が氾濫する恐れがあるために、老中・田沼意次の命令で、平戸・検見川間に幅約11mの掘割を作る工事が始まりました。3年後の天明6年に工事のほとんどが仕上がるところで6月の大洪水に見舞われ、堤防が決壊、水に流されてしまいました。さらには田沼の失脚により計画は中止されました。
続いて天保14年(1843年)7月、老中・水野忠邦はこれまでの失敗を参考に十分な準備の上、工事のスピード化の工夫もして着工します。異国船による海運妨害を想定し、利根川-印旛沼-検見川-江戸のルートを確保する狙いもありました。大名5名に補助を命じ、場所を区分して割り当て11月には完成させるように力を入れ、工事も順調に進みました。ところが9月になって水野忠邦が老中を罷免されたため急遽中止、3度目の正直にはなりませんでした。結局この計画が完成するのは昭和になってからです。
産業、交通の発達
利根川の治水工事の完成により、川舟輸送による江戸との交流が盛んになります。九十九里や銚子の海産物、水郷方面の米穀、銚子、野田の醤油、その他、薪炭や雑貨類が舟送りされるようになり、房総の産業は大消費地を控え大きく発展します。水運を利用し、上方の「下り物」に圧倒されていたのを、銚子や野田の濃い口の地廻り醤油が江戸市場を独占するようになりました。また流れ山の「万上味醂(みりん)」「天晴(あっぱれ)味醂」も好評を博しました。
物流により、銚子をはじめ小見川、佐原、木下などの利根川河港の繁栄を呼び、豪商を生みます。中でも銚子や野田の醤油業者は最も繁栄を極めました。銚子付近でとれた鮮魚は、利根川を上り布佐で陸揚げされ、松戸から江戸川を下り日本橋魚問屋へというルートが開かれ、布佐から松戸までを「鮮魚(なま)街道」と呼びました。
銚子でとれた魚を利根川を遡って早船で運び、夜中に布佐で荷揚げ、気温が低く鮮度の落ちない夜中に馬で松戸まで 運び、再び船で江戸川を下り日本橋の魚問屋に運びました。銚子を前日の夕方に出発すると、翌日の夜には日本橋の
魚問屋に着く決まりでした。
また、利根水運は信仰と行楽を兼ねた観光路線としても利用されました。行徳と木下を結ぶ木下街道からは木下 茶船と呼ばれる観光船が就航していました。
香取や鹿島への参拝や銚子へ磯巡りに出る人も多かったといわれています。
上総、安房の海辺の村には五大力船や押送船があり、簡単な船着場や荷置場が作られていました。下総千葉町周辺の登戸村、寒川村、曽我野村、浜野村にも輸送量の多い港がありました。九十九里の干鰯、〆粕等が半島を横断しこれらの港から江戸に運ばれていました。
房総の町
小大名の多い房総では、城下町や陣屋元町よりも、港や河岸をひかえた町場の方が周辺に対して強い影響力を持っていました。
房総第一の町場は銚子です。飯沼村、新生村、荒野村、今宮村が中心で、この周辺17村は宝永6年(1709年)からは高崎藩の飛地領となりましたが、単に高崎藩の飛地領の中心というだけではおさまりきらない広い地域を後背地とし、また東廻り海運の重要港として遠隔地交易の拠点でもありました。
銚子に次いで繁栄した町場が佐原です。佐原は武士が居住していない純粋な在町でした。佐原は行政上は「村」ですが、市が立ち、村内の組の名称が「宿」となっていたり、町場の要素が強く、私的に「佐原町」と記した事例は元禄期まで遡れます。
この他、房総で大きな町場といえば、大きい順に船橋、木更津、天津、五井、東金、富津と続きます。城下町、陣屋、町場全てをあわせた人口の多い町を順に列挙すると、銚子、佐倉、佐原、船橋、木更津、天津、五井、関宿、富津、東金、館山と続きます。千葉町は、かつては千葉氏の拠点として繁栄しましたが、その後は寒村となっています。
佐倉惣五郎
『地蔵堂通夜物語』に佐倉惣五郎の物語があります。佐倉藩主・堀田正信の増税・新税の廃止を藩領の名主らが繰り返し求めますが拒否、名主の代表6人が老中に駕篭訴しますがこれも却下されてしまいます。承応2年(1653年)、印旛郡公津村の名主・惣五郎が単独で将軍に直訴、これにより重税撤廃の要求が通ります。しかし惣五郎夫妻と息子4人が処刑されてしまいます。惣五郎は怨霊になったと言われています。
これはあくまでも物語の筋で、史実としてはほとんどわかっていません。当時、公津村に惣五郎という百姓が実在し、村域を越えて29石以上の田畑を所持する名主クラスの富裕な百姓であったことまでは判明しています。
この直後、堀田氏は幕政を批判したことにより改易され、100年近く後に再び佐倉に入封しました。惣五郎の百回忌の宝暦2年(1752年)、口の明神(佐倉市)も惣五郎を祀り、藩公認の義民とされました。惣五郎の怨霊の記憶から、藩側の弾圧への抑止力となっています。
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