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房総文化
利根川舟運とともに街道の整備も進み、これにより江戸との結びつきが一層濃くなります。文人、学者の往来も盛んになり、江戸文化の伝流をもたらします。上方文化中心から江戸で元禄文化が花開きますが、その代表的人物の中に房総と関わりの深い人物も多くいます。
朱子学者・新井白石は、上総久留里藩土屋氏の藩士の出身です。
江戸歌舞伎の名優・初代松本幸四郎は下総香取郡小見川村の出身で、俳名を小見川と称していました。
江戸浮世絵の創始者・菱川師宣(もろのぶ)は、元和年間に安房国保田で生まれ、父の業を手伝い縫箔刺繍の下絵を描いていましたが、後に江戸に上り、土佐、狩野、長谷川諸派の画風を学び、ついには後世への名声を勝ち得ました。(右は師宣の『見返り美人図』)
江戸時代後期では、関東の農村復興に貢献した人物として二宮尊徳とともに大原幽学が挙げられます。尾張藩の出身ですが、少年期から流浪の身となり、諸国を遊歴、神道、儒学などを学びました。天保5年(1834年)、下総に入って香取郡長部村(干潟町)の名主宅に寄寓し、どん底の長部村の立て直しに尽力しました。
南総里見八犬伝
『南総里見八犬伝』は滝沢馬琴による諸国にまたがる物語です。戦国期の話し、結城合戦に敗れた里見義実は飼い犬・八房に「安西景連(かげつら)を食い殺したなら、娘の伏姫を与えよう」と戯れ言を言います。すると八房は本当に景連を食い殺し、首をくわえて戻って来ます。義実は約束通り、伏姫を与えると八房は背中に乗せて去っていきます。やがて身ごもった伏姫の体から飛び出した八つの玉が八犬士となります。
伏姫のモデルは、夫が戦死した後に尼となり、上総の山中で生涯を終えた里見義尭の息女・種姫、八犬士のモデルは第10代・忠義の悲劇の死に殉じた八遺臣とする説があります。
『南総里見八犬伝』は完成までに28年、馬琴は途中、失明し口述筆記となりました。
青木昆陽
甘藷先生と呼ばれた青木昆陽は江戸・日本橋の魚問屋に生まれ、幼名を文藏といいました。青年時代に 京都に出て伊藤東涯に儒学を学び、江戸に帰ってからは青木昆陽と名乗り儒学を教えていました。
一方、昆陽は食糧不足に苦しみ年々餓死者が出ている伊豆七島の罪人たちの食物としてサツマイモに注目し、享保20年(1735年)に試作に成功し、『蕃蔗考』にまとめ大岡越前守忠相に提出しました。これは狭い畑でも種芋で簡単に増やす栽培法を、下総国馬加村(花見川区幕張町)で研究しまとめた論文です。
享保17年(1732年)の大飢饉の後ということもあり、大岡越前は『蕃薯考』を8代将軍吉宗に呈上、 早速薩摩国からサツマイモが取り寄せられ、昆陽に小石川薬草園で実験的に栽培させ成功。続いて大規模な試作を大岡氏の領地である上総国豊海不動堂(九十九里町)で行いました。
享保の大飢饉の際は8代将軍・徳川吉宗に全国に普及させるよう命じられ、試作地として、天領の下総国馬加村(花見川区幕張町)、小石川の養生園(小石川植物園)、上総国不動堂村(九十九里町)が選ばれ、特に馬加では沢山の収穫を得、関東各地に普及し、これは昆陽が狭い畑でも種芋で簡単に増やす栽培法を下総国馬加村(花見川区幕張町)で研究しまとめた論文です。昆陽は食糧不足に苦しみ年々餓死者が出ている伊豆七島の罪人たちの食物にと考え、栽培法を研究していました。享保17年の飢饉の後ということもあり、大岡越前は『蕃薯考』を8代将軍吉宗に呈上、
早速薩摩国からサツマイモが取寄せられ、昆陽に小石川薬草園で実験的に栽培させました。これが成功すると 、大規模な試作を大岡氏の領地である上総国豊海不動堂(九十九里町)で行いました。
この時代、武蔵、上総、下総、常陸の洪積台地では水が乏しく夏は日照りのために作物が出来にくい状態が 続いていました。ところがサツマイモはイモが土中にあり、根が深く伸びるので日照りに強く、その上サツマイモ
を作ると畑を深く耕すため、他の作物も根を張り日照りに強くなり、それまで焼畑で切替えを行っていた畑が 次々に定畑になっていきました。
伊能忠敬
延享2年(1745年)上総国山辺郡小関村(九十九里町小関)に生また伊能忠敬は、18歳の時に酒造家の養子となり、50歳の寛政6年(1794年)、家督と長男に譲り翌年江戸の暦学者・高橋至時(よしとき)の門をたたき、隠居後の56歳になってから始め日本で最初の詳密地図『大日本沿海輿地全図』を作りました。天体観測によって諸地点の緯度を測定、緯度・経度の網の中に実地測量した地形を位置づけすることにより驚異的正確さの地図を完成させました。
藩校と佐倉
江戸時代中期以降、幕藩体制への反発や各藩の財政難打開を目指し、藩政改革を実施し、人材育成のために家臣やその子弟の教育機関として多くの藩校が設立されました。寛政4年(1792年)の佐倉の成徳書院(現佐倉高校)を皮切りに、佐貫の誠道館、久留里の三近塾、関宿の教倫館、大多喜の明善堂、多古の学問所、鶴牧の修来館、一宮の崇文館、高岡の学習館、生実の郁文館、飯野の明新館等です。
房総最大の藩校・成徳書院は、寛政4年に設置された学問所から始まっています。(学問所は後に温故堂に改名)当初はあまり盛んではありませんでしたが、天保4年(1833年)に藩主の堀田正睦(まさよし)の藩政改革が開始され、藩財政立て直しと文武奨励による士風の刷新を目的に温故堂から成徳書院に変わりました。温故堂時代は小規模な教育で、教授される学問の中心は儒学でした。成徳書院では組織的に大きく拡充し、藩の重臣を総裁として総括させています。家臣の子弟だけでなく一般庶民の子弟にも入学を許していました。
成徳書院には医学所、洋学所が設けられ、医学所では当初は漢方医学でしたが、藩医の鏑木仙安が蘭方医学(オランダ医学)の講議を始めました。天保14年(1843年)に蘭方医の佐藤泰然が佐倉に来てからは医学が大きく発展しました。城下に順天堂という塾を開き、診療と医学教育を行いました。藩主・堀田正睦は安政2年(1855年)に老中首座となり、アメリカの駐日総領事・ハリスとの交渉にあたっています。「蘭癖」と呼ばれるほど西洋事情に通じていましたが、背景には佐藤泰然の助言があったことは想像に難くありません。
佐藤泰然の跡をついだ佐藤舜海(尚中)は、小見川の藩医の家に生まれ、泰然の養子となり、長崎でオランダ医師・ポンペから学んでいます。帰藩後の舜海は順天堂での診療や教育にあたりました。「西の長崎、東の佐倉」という言葉は長崎の精得館と佐倉の順天堂という、当時の蘭方医学の最先端を指している言葉です。
海防政策
18世紀も終わり頃になると、日本近海への異国船来航が頻繁になります。蝦夷地にロシア船があらわれるようになると幕府は「江戸の咽喉」である江戸湾の防備に迫られ、上総、安房の沿岸を陸奥白河藩に、相模沿岸を陸奥会津藩に防備を命じ、防備のための後背地としてそれぞれ3万石の領地を与えました。江戸湾防備の担当藩は交代していきますが、そのたびに領地が湾岸に与えられました。房総の場合は、おおむね富津岬から半島最南端にかけての地域です。
異国船来航時には房総から援兵を送ることとされ、大筒鋳造や台場を建設するようになりました。
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