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里見氏の進出
室町時代後期になると上総国には万喜(まんぎ)城(いすみ市)の土岐氏、大多喜城の正木氏、土気、東金は酒井氏、真里谷(まりやつ)城に武田氏と割拠します。
安房国には安西、丸、東条、神余(かなまり)の4豪族が領地争いを繰り返していましたが、文安年間に三浦半島から入国してきた清和源氏の新田氏の末流と言われる里見義実(よしざね)は安西景春を助け、丸信朝と共に神余景貞を殺した神余の家来・山下定兼を滅ぼし、さらにその旧領を巡り両氏が争いを始めたため、再び安西氏を助け丸氏を滅ぼしました。更に、その後安西氏と里見氏が対立するようになり、やがて安西氏は里見氏に従うようになります。安房国で残っているのは東条氏だけになりました。文安2年(1445年)、東条氏の籠る金山城を攻め、激戦の末これを落城させ、この時大多喜城の正木大膳が東条氏の応援に来ていましたが、里見氏に敗れ大多喜城に引き上げています。こうして里見氏は義実一代の間に安房国を手中に治めました。義実は白浜から長田、稲村に城を移し、安房を統治しました。里見氏は6代・義尭の頃には上総、下総にまで進出し隆盛を誇りました。
安房から上総へと侵攻を続ける里見氏がぶつかった強敵は下総国の千葉氏です。しかし千葉氏も単独では応戦しきれず、小田原の北条氏と結んで里見氏に対抗しました。
戦国時代の幕開け
都鄙和睦成立後、上杉氏は山内上杉氏と扇谷上杉氏に分裂し争いを始めます。一方の古河公方の足利氏も成氏の子・政氏と高基(たかもと)の父子間で対立が起こり、これらの争いに関東中が巻き込まれていきました。
房総では、千葉孝胤が没した翌年の永正3年(1506年)には扇谷上杉氏の重臣・三浦道寸(どうすん)が相模から渡海し砦を構え、足利政氏の勢力と上総の赤興(あこぎ/大網白里町赤萩)合戦や下総千葉荘の井花(亥鼻)合戦で戦闘が起こりました。足利氏同士の争いは次第に政氏の勢力が弱体化し、やがて政氏は下野小山氏のもとに逃れ、高基が古河に入城、事実上古河公方となりました。
北条早雲と小弓公方
これらの抗争の間隙をぬって、伊豆韮山を根拠とする北条早雲が進出し、小田原城を奪取、鎌倉を占拠、永正13年(1516年)には相模の三浦道寸を滅ぼし、対岸の房総侵攻を開始します。
同年、上総の茂原に侵攻、翌年には上総真里谷武田氏の求めに応じ、三上佐々木氏の真名城(茂原市真名)を攻略しました。同時に真里谷武田氏は対立する小弓城の原氏を早雲の援助を得て攻略しました。小弓城には足利政氏の子・義明が入り小弓公方となりました。
永正16年(1519年)、危機感を抱いた古河公方・高基は千葉勝胤を中心に下総弥富城(佐倉市岩富)を拠点に、義明方の拠点である上総の椎津城(市原市椎津)を攻撃、これと同時に早雲の子・氏綱による茂原への侵攻がありました。また上総の佐貫大乱が起こりますが、義明方はこれらに対抗し、臼井氏の和良比城(四街道市和良比)に里見義通(よしみち)を配備し、関宿城攻撃を命じています。
大永4年、北条氏綱が江戸城を奪取、江戸城を奪われた扇谷上杉氏は房総と結び北条氏に抵抗しまていきます。真里谷武田信嗣は北条氏と手を切り、里見義豊らとともに義明の命を受け、江戸城下の港湾都市・品川や今津などを海上から攻撃しました。里見氏は六浦攻撃から鎌倉に攻め入り、北条方の玉縄城(鎌倉市大船)下の戸部川畔で一戦交えています。
里見氏と武田氏の内乱
天文2年(1533年)、里見義豊が叔父の実尭(さねたか)や重臣・正木通綱を誅伐したものの、翌年、逆に北条氏の援助を受けた実尭の遺児・義尭に滅ぼされました。この里見氏の内乱は一族、家臣も戦闘に参加する大きな内乱となりました。里見氏の嫡流は途絶え、義尭が家督を継いでいくことになりました。
同じ頃、真里谷武田氏でも内乱が起こります。信嗣の跡を巡り、嫡子・信応(のぶまさ)と庶子・信隆の争いに一族、家臣が加わりました。こちらは北条氏よりの信隆が敗れ、小弓公方・足利義明の援助を受けた信応が勝利しています。信隆は武蔵金沢に逃れました。
国府台の戦い
なおも房総侵攻を狙う北条氏は天文6年(1537年)に武蔵河越城(川越市)をおさめ、翌年には下総葛西城(葛飾区)を落とします。葛西城奪取により、江戸城の前線基地を得た北条氏は房総攻撃を水陸両面から可能となりました。
対する小弓公方・義明は、なおも古河公方攻撃を目論み、関宿城攻撃のために国府台の要塞へ陣を進めます。一方、古河公方・足利晴氏(高基の子)は北条氏に義明追討を命じます。
天文7年(1538年)、第一次国府台合戦が勃発、北条氏綱の勝利で、義明は戦死、子の頼純(よりずみ)らは安房に逃れました。この戦いで馬加千葉氏、原氏、武田氏ら、房総諸豪のほとんどは北条氏に従属、武田氏は武蔵金沢に逃れていた信隆が家督として復活しました。しかし諸氏の弱体化は否めず、返って戦いで大きな被害を受けなかった里見氏の上総進出を許す結果となりました。里見義尭が上総久留里城(君津市久留里)に、子の義弘が佐貫城(富津市佐貫)に、正木氏が安房勝浦城、上総小田喜城(大多喜町)を抑えています。
また原氏は義明の死と臼井氏の滅亡により、小弓城を奪還し、臼井城も確保するなど、主家筋の千葉氏から自立する姿勢を示し始めています。原氏の家臣・高城氏が主の跡を受け、小金大谷口城(松戸市大谷口)に拠りました。
千葉氏は天文15年に昌胤が、翌年に利胤が相次いで病死し、利胤の末弟・親胤が跡を継いでいます。親胤は北条氏康(氏綱の子)の娘を室に迎えています。
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