房総の歴史 千葉氏
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千葉氏のおこり
 平常将らが房総で主導権を握れたのは、忠常の乱の際に源頼信に降伏し、頼信の子孫をリーダーと仰いでいたからです。常将は陸奥の前九年の役に、その子の常永は後三年の役に源頼義、義家に従い参加し功績を挙げています。
 12世紀の初め頃、常将の孫の代以降一族は、房総各地の郡や荘、郷の名を苗字とする一族が次々に分出しています。鴨根氏、大須賀氏、植下氏、白井氏、安西氏、相馬氏、戸気(とけ)氏等がありますが、この中の一派が後の千葉氏となります。
 千葉氏は桓武天皇の系譜を持つ関東の名族で、始祖・平良文は、平将門の乱以後、貞盛の一族の勢力に苦しみましたが、忠常の乱を契機に源氏に従い、常長の子・常兼の代に上総の大椎に移り大椎権介と称します。常長の孫であった千葉介常重は大治元年(1126年)に土気の大椎城から亥鼻台に千葉城を建て本拠地を移し下総に勢力を広げました。

荘園と公領
 藤原道長の時代から全国は荘園だらけになり、公領はないに等しかったという説もありましたが、房総の例だけ見てもこれが事実とほど遠いことがわかります。文献上、房総の最古の荘園は藻原荘、田代荘、天羽荘など、9世紀末に興福寺に寄付されたものですが、これは例外的で、大半は12世紀に入ってからのものです。白河院政の末期で、ちょうど房総平氏一族が各郡・荘の名を苗字として分出していった時期です。当然これらは関係があり、地方豪族が開発した地域を中央の有力者や大寺社に寄進して荘園とし、自らは荘司となり現地支配権を確保するというものは寄進地系荘園の成立そのものです。

相馬御厨の紛争
 12世紀の相馬御厨は平良文以来、忠頼、忠常、常将、常長、常晴と6代に渡って相続してきました。天治元年(1124年)、常晴は実子・常澄がいるにもかかわらず、なぜか甥の常重を養子にたて相馬の地を相続させます。これを受けた常重は大治5年(1130年)、郡内の布施郷を伊勢神宮に寄進、子孫代々現地を支配する下司となる契約を結び、国司もこれを了承しました。
 しかし、荘園は国司が認定するので、国司が交代するたびにその地位は不安定になります。保延2年(1136年)、時の国司・藤原親通は御厨を否認し、年貢の大量未払いの罪で常重を拘禁、御厨だけでなく私領の海上郡立花郷まで没収してしまいます。
 これに乗じたか、康治2年(1143年)、常晴の実子・常澄が自分こそが御厨の正当な所有者であると主張しました。当時「上総曹司」と称して鎌倉に館を構え、南関東一円に勢力をのばしていた源義朝(よしとも)をかついだ常澄は、久安元年(1145年)、義朝名義で相馬郡を伊勢神宮に寄進してしまいました。
 この圧倒的不利な立場から、翌年常重の子・常胤は、国司に大量の財物を支払い年貢未払いを解消、相馬郡司に任命されるや、再び御厨を伊勢神宮に寄進しました。更に、保元の乱には自ら義朝軍に参加します。これも御厨への執着からだと思います。しかし常胤の苦心も空しく、義朝が平治の乱(1159年)に敗死すると状況は悪化します。常陸国の豪族・佐竹義宗がかつての国司・藤原親通の子孫から御厨を譲られたと称し介入、常胤、常澄両者とも大謀反人・義朝の年来の郎従の権利など無効であると宣言します。永暦2年(1161年)、新たに御厨として寄進を行い、長寛元年(1163年)、これを天皇の宣旨で正式に承認されてしまいました。
 常重・常胤を抑圧した藤原親通の子・親方(ちかかた)が下総国司を引き継ぎ、孫の親政(ちかまさ/親雅)は京で崇徳天皇中宮(関白藤原忠通の娘)の判官代となり、平清盛の姉か妹を妻に迎え、逆に親政の姉か妹を平重盛に嫁がせ資盛を生ませました。このように平氏との結びつきを強め、一方下総では常重や常澄の叔父にあたる常房(つねふさ)系統の武士団と結びつき勢力を増していました。常胤ら千葉氏には厳しい情勢となってしまいました。
 一方、常晴・常澄親子は上総国内を中心に武士団を形成し、常澄の子・広常の代には上総国の大部分と下総国の木内庄、相馬郡、埴生庄、匝瑳郡、印東庄などを支配する大武士団に成長、上総氏と称しました。

妙見信仰
 千葉氏の守護神の「妙見」は、北極星や北斗七星を神格化したもので、中央アジアの遊牧民族の間で信仰されていたものが中国を経由してわが国に伝えられたものです。伝来当初は近畿地方で信仰されていましたが、遊牧系帰化人の関東移住に伴い、関東地方にもたらされました。関東の名族であった千葉氏は「妙見」を守護神として崇拝し、一族は妙見を精神的な支柱として強く団結しました。

家紋
 千葉氏の家紋はこれまで月星紋(月に星)や九曜紋(真中に1星と周りに8星)とされてきました。しかし、建武4年(1337年)の『源平闘諍録』によれば、千葉氏の家紋は「千九曜紋」(月に九星)とされています。
 また、元禄2年(1689年)の『亘理文書』によれば千葉氏の家紋は「半月の九曜紋」や「満月の九曜紋」、「月に星紋」などとされています。
 一方、「千葉家幕紋図」(『妙見寺文書』)では「半月の九曜紋」や「満月の九曜紋」を含む様々な月星紋(月と星で構成された紋)や多曜紋(複数の星紋で構成された紋)が描かれている事から千葉氏には星や月によって構成される様々なデザインの家紋があったと考えられます。

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