房総の歴史 古 代
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縄文時代
 長い氷河期が終わった縄文時代は温暖な時代でした。平均で現在より気温は2度ほど高く、植物や動物の楽園となりました。これは人間にとっても楽園であり、豊富な食料(獣、魚、木の実等)が確保出来、安定した生活がおくれました。特に東日本一帯(中部〜関東、東北)が縄文時代の中心地になりました。これは東日本を覆っていた森林に関係があります。
 平野こそ人口密度が高いように思われがちですが、この時代、川の氾濫は大きな問題で、利根川をはじめとする大河流域は危険地帯です。利根川、手賀沼、印旛沼は一つの海で、周辺にも湿地帯が多くありました。しょっちゅう洪水となる大河の側は定住には向いていません。広大な関東平野のあちこちが湿地帯でした(渡良瀬遊水地のように)。
 しかし房総は全般的に湧き水が多く台地状になっているところが多いため、大変住みやすい土地柄でした。このため人口密度はきわめて高く、日本列島でも有数の人口をほこっていました。神崎町西之城貝塚では日本最古の土器が出土しています。千葉市若葉区の加曽利貝塚には縄文時代の人々が捨てたたくさんの貝殻の塚が残っています。当時はこの付近まで海岸がせまっていたと思われます。現在より海岸線が内側に入っており、これを縄文海進と呼んでいます。
 縄文時代の貝塚は全国に分布し、約1500か所を数えます。おもに島原湾、伊勢湾、東京湾、松島湾などの太平洋沿岸に発達し、なぜか日本海沿岸には極めて少ないのです。中でも関東地方には、約1000か所が集中し、特に東京湾沿岸には約600か所が密集しています。しかも、この地方には大型貝塚を伴なう遺跡が最も数多く分布し、当時いかに東京湾沿岸で貝が採られていたかよくわかります。

加曽利貝塚
 1965年、加曽利北貝塚の貝層の下から竪穴住居跡が重なり合って発見されました。いずれも今から4500年ほど昔の縄文時代中期のもので、貝層と複雑にからみ合っていました。
 住居跡を見つけた面の土の色や質の違い、土層の断面、床面の観察などから、住居の新旧や貝層との関係を細かく調査しました。
 加曽利貝塚には今から7500年前に人が住み始め、5000年前から貝塚が作られました。もっとも栄えたのは縄文後期の3500年前ごろで、貝殻の量も多くなり、北貝塚から南貝塚に移動したようです。
 掘立柱の竪穴住居には30人ほどが暮らしており、加曽利には10軒以上建っていました。竪穴住居は柱の根元が腐るので10年から20年で建て替えたり、捨てられてしまいます。なぜ同じ場所に繰り返し住居を作ったのか。また、貝塚と住居の関係はどうだったか。など、貝塚の謎を解き明かすヒントが多く隠されています。
 日本列島はほとんどが酸性土壌で覆われているので有機質の物が残りにくいのですが、貝塚では貝殻のカルシウムによって土壌が中和され、人骨をはじめ鳥や獣の骨など貴重な資料が数多く残されます。この点で貝塚は他の遺跡より価値が高いといえます。
 加曽利貝塚から出土した縄文時代の中期から晩期に属する石器類の岩質を調査し、現在その原産地はほぼ判明しています。赤城・榛名山の安山岩、伊豆天城山の浮石、伊豆箱根の黒曜石、秩父古生層のチャート、秩父長瀞の輝緑岩や緑泥片岩、丹沢山塊の閃緑岩など関東周辺のものが多く、ヒスイは新潟県姫川・糸魚川上流のものでした。当時、かなりの広範囲からその石材や石器が運ばれていたことがわかります。

貝塚にみる縄文人の生活
 千葉市稲毛区小仲台にある鳥込東遺跡からは約7000年前の小さな穴の中で焚火をした跡(炉穴)が160個も発見されました。時期ごとに何度も掘りなおしたものと思われ、おそらく季節ごとに獣を追いキャンプをした跡と思われます。
 約4000〜3000年前(縄文後期)になると、遺跡の規模はかなり大きくなります。大型貝塚を伴う遺跡も縄文後期のものがもっとも大規模となり、この時期が貝塚文化の最盛期であったことを物語っています。しかも遺跡数の大多数を占めている貝塚を伴わない集落や小型貝塚を伴う集落は比較的短期間で移動しているのに、大型貝塚を伴う遺跡は長期に存続するものが多い。市川市の姥山貝塚は他の大型貝塚と似たの馬蹄形をなすタイプで、中央には住居跡もなく、貝も捨てられていません。この中央広場は貝塚の形成と直接関係があり、集落における大型貝塚の存在意義を解く重要な鍵となります。
 千葉県には石材があまりありませんが、同じ「石なし県」にありながら一方では加曽利貝塚のように、石鏃もその原石や破片も乏しいのに獣の骨が豊富に出土するむらがあり、他方、船橋市高根木戸貝塚などのように獣の骨は少ないのに製品も石材も大量に出土する村があります。石材の乏しい地域だけに、原石をとり寄せて、もっぱら石器を加工する村と、その製品をとり寄せて消費する村とが共存していたことを物語っています。
 縄文中期の貯蔵用土器には、グロテスクな顔やヘビなどを内側に向けて彫刻したものが多く発見されています。おそらくこの土器の中には、村人たちにとって大事な食糧やトリカブトなどの毒汁が貯えてあって、盗み食いをしたり手に触れたりするのを禁じていたものとされています。
 貝塚には、偶然貝殻の下になった獣や鳥の骨だけが貝のカルシウムのため保存されています。骨の量は実際はもっと多かったと思われます。食べられた肉の量は貝の身などよりはるかに多いと考えられています。捕らえられた獣の中ではイノシシとシカが最も多い。これはおもに陥し穴などの集団狩猟によって捕らえたと思われます。
 土を焼いてつくった人形(土偶)は、中期から後・晩期にかけて次第に多くなります。全て女性をかたどり、腹部が大きく妊娠を表わしています。当時の女性は、妊娠すると自分の身代りとしてこの人形を作り安産を祈りました。そして無事に生まれると叩き割ります。流産や死産の場合はこの人形をそのまま土の中に埋めて、再び子宝が授かるように祈ります。

縄文文化の衰退
 村の先祖をまつるシンボルだった石棒が、後・晩期になるとにわかに小型化し刀剣の形になり、特定な男性が独占するようになります。当時は女性を中心とする母系社会ですが、村が安定し豊かになるにつれて外敵があらわれます。呪術者などの特定な男性が中心となって、村の安全を守る重要な役割を持ち男性が次第に地位を高めていきます。
 山武郡横芝光町の山武姥山貝塚は、約5000〜2500年前(中期〜晩期)までつづいた村です。点在する貝塚が全体で馬蹄形をなしていますが、時期によって貝塚の位置が移動し、最終末になると貝塚はほとんどなくなっています。
 約3000〜2500年前(縄文晩期)になると、最も発達していた大型貝塚が姿を消します。それとともに小型貝塚を伴う集落も貝塚を伴わない集落も急に減少し、東京湾沿岸にはごくわずかな集落が分散して残されるだけになります。
 村人達は関東地方から東北地方や中部地方に分散して行ったと考えられています。このような人口の大移動が起こったのか、大きなナゾです。(気候の変化によると思われる)

縄文時代の農業
 成田市の荒海貝塚から縄文後期頃の籾柄痕がついた土器やイネのプラント・オパールが見つかっています。畑稲作と呼ばれる栽培が行われていたと思われ、初期農業として縄文時代に農耕が行われていたことがわかります。リョクトウ、エゴマ、ヒョウタンも栽培されていたようです。

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