1.前書き
古くから邪馬台国の所在地を巡っては九州説、畿内説に分かれて争い、今だに結論は出ていない。『魏志倭人伝』を読めばすぐにでも分かりそうな簡単な問題のようで、実は考えれば考えるほど深みにはまる難しさを持っている。当然、私が簡単に答えを出すことなど出来るはずがない。
そこで、邪馬台国にまつわるナゾに挑戦する前に、まずは『魏志倭人伝』を読むことから始めたい。言うまでもなく、『魏志倭人伝』は3世紀頃のこの国の状況・歴史を知る上での再重要テキストだ。邪馬台国のナゾは、他の中国史書や『古事記』『日本書紀』や、神社や地域に伝わる伝承等も含め、複合的に問題解決をはかることになるだろうが、その前に最も基本である『魏志倭人伝』を正確に解釈していることが前提となる。この最も基本的なことですら、意外にも理解度が低いように思うので、ここに改めて書くことにする。
とは言いつつも、古代史というものは数学的にキチンと証明されるものではなく、悠久の時間の流れの中で永遠に失われてしまった事実を、他の情報を様々な角度から観察することによって推理する部分もある。ここでは『魏志倭人伝』を「正確に読む」ことを目的としているが、たった1種類のそれほど長文でもない文章の解釈ですら複数存在することを知っておいてもらいたい。責任逃れというわけではないが、ここに書かれていることがすべて真に「正しい」かどうかは、各自の判断に委ねることにしたい。それは、どんなに権威のある学者にかかっても、最終的には「邪馬台国のナゾ」は今だにナゾのままであるという事実があるからだ。何が真に正しいかの答えは出ていないのである。ここに書いてあることは、「私個人はこう読める」「こう考える」ということであって、当然、これが学術的な裏付けを得ているのではないことはご了承頂いた上で読んでほしいと思う。それにより、今までにはないナゾ解きへの第一歩が見つかれば嬉しい。2.国の数
それでは最初から行こう。まず出だしである。「倭人は帶方の東南大海の中にあり、山島に依りて國邑をなす。旧百余國。漢の時朝見する者あり、今、使訳を通ずる所三十國。」
特に問題箇所はないように思われるが確認しておきたい。帯方とは、現在のソウル辺りにあった魏の出張機関で、その帯方郡から見て東南の海の中に倭人はいるといっている。海の中というのは、当然、水の中という意味ではなく、海み浮かぶ島々ということだ。それが「山島に依りて國邑をなす」だ。
この次は重要だ。まず、昔は100国以上あったという。この数字、後に倭の五王が平定したという倭国内の国の数や国造が置かれた時の数が120くらいであることを考えると、九州の一部ではなく、日本列島全体(東北を除いた、当時の倭人の居住地域)を指している可能性がある。もちろん、1国の単位・大きさは変化するだろうが、控えめに言っても、この数字から九州の狭い範囲だけを想定しなければならない理由はない。どちらかと言えば列島の多くを想定した方が良さそうにすら感じられることだけ指摘しておく。
「漢の時朝見する者」というのは、『後漢書』等にある57年に「漢委奴國王」の金印を賜ったことを言っているのだろう。
「今、使訳を通ずる所三十國」というのは、「日本列島全部で100国以上あったものが30国に統合された」という意味ではない。ここを勘違いしている人は意外に多い気がする。あくまで使訳を通じているのが30国という意味だ。
逆に、言うと、昔あったという100国が全て中国と使訳を通じていたのではなく、100国についてはたんに「昔は100国あった」というだけだ。
それでは今、列島内には何か国あるのだろうか。これも特に書かれてはいない。しかし、『魏志倭人伝』の著者・陳寿は簡潔に書く傾向にあり、繰り返しは極力避けていることから考え、おそらく今も100国程度はあると考えて良いのではないだろうか。
つまり、「昔も今も100余国あり、そのうち今、中国と通じている国は30国」という意味になると思う。3.魏志倭人伝の情報源
この文章には基本的なことでもう一つ重要なことがある。
それは、全ての情報が実際に倭国を見聞した魏使のレポートによる情報ではないということだ。
「旧百余國」とか「漢の時朝見する者あり」というのは魏使からの新情報ではなく、以前から知られていたことだ。それは『魏志倭人伝』以外の中国史書に書かれていることから分かる。
陳寿がこれから『倭人伝』を書こうとした場合、予め用意している情報がある。直接倭国を訪れた魏使の報告レポートはもちろんだが、当然それオンリーであるはずがない。前知識として、これまでに知られている倭国情報を一通りチェックしているだろう。
「倭人は帶方の東南大海の中にあり」というような部分も、以前から知られている情報であり、今回の魏使からの情報でも再確認出来た情報でもあろう。
『魏志倭人伝』に書かれている情報は、魏使からの情報プラス、これまでに知られている情報であるということを忘れてはならない。どうしてもすべて魏使からの新情報だけだと思い込んでしまう人がいるが、そんなことはあり得ないだろう。同様に、これ以降の中国史書は『魏志倭人伝』の影響を既存の情報として流用しているということも当たり前すぎる事実であろう。
文中でこれを見分けるポイントは『魏志倭人伝』以前の書に書かれているかどうかだ。以前の書にもある情報ならば「既存の情報」か「既存プラス魏使からの両方の情報」のどちらかということになる。4.魏使は郡から来た
「郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓國をへて、たちまち南したちまち東し、その北岸狗邪韓國に至る七千余里」最初に明確に「郡より」と書かれている。郡とは帯方郡のことだ。一貫して帯方郡からの視点で書かれている。
「その北岸」という表現に戸惑うケースがよくあるようだが、船からの視点で考えると、船の北側の岸という解釈で構わないのではないか。「北岸だから九州北部のどこかだ」という説も聞いたことがあるが、それではここから先の文章の意味が分からなくなってしまう。「倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝獻せんことを求む。太守劉夏、使を遣わし、将って送りて京都に詣らしむ」という部分が後半にある。
倭国が魏に朝貢したという情報だ。使の難升米は郡に行った。洛陽ではない。洛陽に行ったのは帯方郡の太守・劉夏の使いの者だ。
この後、正始元年になってから太守・弓遵の使が倭国を訪れる。つまりこの時の使の情報が『魏志倭人伝』のメインの情報であり、またここからも魏使が帯方郡から来たことが明確だ。5.文化について
「その風俗は淫らならず」から先は倭人の文化について紹介されている。いくつか気になる点を挙げておく。
倭国には牛や馬がいない。たまたま魏使が見ることがなかったのか、または現地の倭人にそう教えられたのか。食事には箸を使わず、寝室は別、死ぬと古墳を作り、殯がある。「歌舞し飲酒す」という部分は神話の天照大神が岩戸に隠れた時の様子を思い出す。
「倭の地は温暖にして、冬、夏生菜を食す」とあるが、これはかなり南国風だ。まあ、九州北部でも畿内でも冬に野菜を食べることが出来ないとは言えないが、これをわざわざ書いているのは中国よりずっと南国だということが言いたいのだろう。6.伊都国
「女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を檢察せしむ」「以北」というからには、女王国はかなり南側にあるのだろう。この点からも女王国が九州北部にある可能性は低い。
「一大率」とは何だろう。女王国の出張機関のようなものだろうという意見が強いようだ。この直後に一大率が伊都国に置かれていることが分かる。
伊都国は他の国と違い、王がいたり船が往来する港を持つ、九州北部の有力国だ。
わざわざ一大率を置いて周辺をチェックするのだから、女王国が伊都国の近くでないことも確定的だ。「王、使を遣わして京都、帯方郡、諸韓國に詣り、および郡の倭國に使するや、皆津に臨みて捜露し、文書、賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯するを得ず」
「女王」と「王」を区別しているから、最初の「王」は女王でない他の王のことだろう。伊都国王を指しているのだろう。
「京都」というのは魏の都・洛陽のことだ。「郡の倭国」とは何だろう。
「津」は港のことで、伊都国の港でのことを言っているのだろう。伊都国は「郡の使が往来し、常に駐る所」である。7.人口
位置を考える前に、各国の人口を見てみよう。それぞれ戸数が記されている。末廬国4000戸余、伊都国1000戸余、奴国2万戸余、不彌国1000戸余、投馬国5万戸余、そして邪馬台国が7万戸余である。合計14万6000戸余。対馬と壱岐を合わせるとちょうど15万戸になる。
1戸に何人いるかは不明だが、「父母兄弟の臥息処を異にす」や「国の大人は皆四、五婦、下戸もあるいは二、三婦」という情報から考えて、少なくみて6〜7人、多ければ10人を越えるかもしれない。そうすると、14万6000戸余では少なく見ても90万〜100万人になる。高層マンションも団地もない時代に、九州北部だけで100万人前後の人口はとても無理だ。
九州北部に位置する可能性が高い末廬国、伊都国、奴国、不彌国の4か国の合計は2万6000戸余となり、これなら16万〜20万人程度の人口となり、ちょうど良い感じだ。参考までに、吉野ヶ里遺跡の推定人口が1000人くらいである。
末廬国から不彌国までが博多湾沿岸や糸島半島など、近辺と考えられているから、この倍近いの投馬国、3倍近い邪馬台国は相当広大な土地を想定する必要がある。この点からも、少なくとも九州北部に邪馬台国があったとは到底想像出来ない。8.投馬国へ
さて、ようやく位置の話しだ。対馬、壱岐から奴国までは大半が一致しているためここでは触れない。不彌国も奴国のすぐ近くなので問題ないだろう。真東なら飯塚あたり、誤差を考えれば田川、直方、ひょっとすると宗像あたりかもしれない。
問題は投馬国と邪馬台国だ。
まず投馬国だが、「南のかた投馬國に至る。水行二十日」とある。伊都国から放射読みをするという榎一雄説もあるが、後代に『魏志倭人伝』の情報を拝借している各中国正史の編者たちは一様に順番に連続読みで考えているのを見れば、放射読みは邪馬台国を九州北部におさめたいための奇策にすぎないと思う。
そうなると、不彌国から南へ水行二十日ということになる。不彌国は奴国の近くの玄海灘に近い場所にあっただろうから、即座に南へ向かうことは出来ない。関門海峡を抜け、国東半島を越えるまでは南へは向かえない。宮崎方面へ向かえば相対的には南となるが、不彌国から南というニュアンスは少し不自然に感じる。
というのも、伊都国のところに「東南のかた陸行五百里にして、伊都國に至る」とある。末廬国は松浦半島のどこかだろうが、呼子付近なら伊都国はほぼ東、唐津なら北東の位置となる。東南ではあり得ない。
呼子は現在でも壱岐との航路があるが、陸路で伊都国を向かう場合、しばらくは東南方向に進む。唐津付近から北東となる。弥生時代の道路事情はそれほど良いものとは思えず、それどころか末廬国周辺は「草木茂盛して、行くに前人を見ず」というほどなので、出発してしばらく経過した後は方角に誤差があってもそこまで細かくチェックすることは出来なかったのではないか。そうでなければ「東南」とする理由が分からない。
これを踏まえて考えた場合、今度は不彌国から南という部分に違和感を感じるのだ。9.南を東と読み替えて良いのか?
畿内説ではよく「南」を「東」に読み替えるということをする。勝手に方角を90度も変更してしまうのが許されるのなら、他に何でもありという気もするが、これはある程度の説得力はある。
まず第一に、「南」が「東」であれば、不彌国から東へ水行することになり、何の違和感もなくなる。また水行20日の不彌国、そこから更に水行10日、陸行1月の邪馬台国は九州からは軽く飛び出してしまうのを、畿内方面へピッタリと合わせることが可能になる。もちろんこれは畿内説にするための都合の良い辻褄合わせにすぎないのだが、ずっと後代の地図にも日本列島が90度回転して、九州を北に、本州が南北に長い状態で書かれたものがある。東を南と誤解したというのは必ずしもデタラメな言い分ではない。10.会稽東治の東
「男子は大小と無く、皆黥面文身す」とある。この文章に続く「古より」からは既存の情報によるものかもしれない。倭人が水に潜って魚を撮る部分は日本列島内の話しでない可能性が高い。同様の内容が他の史書にあるからだ。しかし、邪馬台国の地理問題とは直接関係ないので深追いはやめておく。
突然「その道里を計るに、当に会稽東治の東にあるべし」という地理情報がある。会稽の東と理解すれば、やや苦しいものの九州と言えなくもない。
また、「会稽東治」ではなく「会稽東冶」の誤りという説もある。東冶は地名だが、この場合は沖縄あたりということになる。はるか昔に書かれたものの点1つだけの違いなのであり得る。微妙だ。
個人的には「会稽の東」ではなく「会稽東◆の東」なのだから、「冶」ではないかと思うのだが、とにかく点1つの問題なので断定的なことは言えない。ギリギリ九州か沖縄かということで、いずれにせよ九州北部でないことは確かだろう。
また、「東」が「南」であるなら、ちょうど大和が沖縄のあたりに位置することになり、まさに「会稽東冶の東」に位置することになる。11.春秋の筆法
ここで少し寄り道をする。東を南と読み替えることが可能であることを説明するための寄り道だ。
卑弥呼の死について考えてみる。「卑弥呼以て死す」
とても不自然な文章である。何か脱落した文章があるのではないかとすら思える。「もって死す」とは何をもって死んだのだろう。理由の部分がない。
ここである本に紹介してあった独特の高度な筆法を紹介する。
孔子の『春秋』は後の歴史家たちが模範とし研究した。中国では官界に入るためには儒学の素養が必須であり、司馬遷や陳寿も例外ではない。司馬遷はハッキリと「『春秋』を継ぐ」と明言しているし、当然、陳寿も同様であろう。
卑弥呼の死の一文は、その『春秋』にある筆法にとてもよく似ている。孫栄健氏の『邪馬台国の全解決』にわかりやすく紹介されているものだが、『春秋』にある魯国の君主の死亡記事を見てみよう。A. 荘公32年、8月癸亥、公が<路寝>で薨ぜられた。
B. 隠公12年、冬、十有一月壬辰、公が< >薨ぜられた。
C. 桓公18年、夏、四月丙子、公が<斉>で薨ぜられた。カッコは私がつけたものだ。ここに注目してほしい。
この3つの文章、非常に似ている。どれも死亡記事だが、これが「春秋の筆法」の例だ。真実をハッキリと書けない場合に用いられる筆法なのだ。
まずA.だが、「路寝」とは宮殿内の部屋の名なので、特に問題のない文章ある。
これに対して、B.の場合はどこで死亡したのか書いていない。これをミスプリントととってはいけない。孔子は「書くに書けない」と教えてくれているのだ。書くに書けない君主の死亡記事とは、つまり暗殺されたということだ。
C.の場合、斉は他国であり、場所は書かれていない。諸国歴訪中に不慮の事故や病死であれば、そのまま書ける。これもやはり暗殺されたのである。
通常と違う記述をしたり、省略したりすることで、その裏にある真実を語るのが「春秋の筆法」なのだ。形式に則ったパターンの中で、形式に反することで、その矛盾を読ませるということだ。『邪馬台国の全解決』では「本来書かれるべき事が書かれない時には必ず何らかの理由がある」と言っている。
つまり卑弥呼の死も暗殺の可能性が高いということだ。しかも、陳寿が書きにくいということは、倭人勢力に暗殺されたのではなく、魏の圧力によるものだと想像出来る。もっと言えば、陳寿は晋の官なので、司馬一族の国である晋に仕える陳寿が遠慮しなければいけないのは、当時の皇帝・武帝(司馬炎)だけであろう。12.魏から晋へ
明帝死後の魏は、幼い斉王芳を司馬仲達と曹爽がバックアップしていた。当然、実権はこの2人が握っている。卑弥呼が死ぬ直前、難升米が魏から詔書と黄幢を賜っている。詔書とは皇帝だけが使う命令ということで、この場合は斉王芳であるが、年は17歳である。
この頃から曹爽の専横ぶりが見られ、仲達がボケ老人を演じ曹爽を油断させクーデターに成功するのは、卑弥呼の死からわずか2年後のことである。
仲達は東北出身である上、公孫淵・高句麗征伐で活躍し、東夷諸国には詳しかった。帯方太守をはじめ、東夷方面には仲達の息のかかった者ばかりである。従って、倭国に対して指示を出していたのも仲達であった可能性が高く、斉王芳の詔書として卑弥呼退位をせまったと考えられる。
卑弥呼死後の倭国は男王が立つも、内乱が勃発し1000人もの死者が出ている。これは大ニュースだ。なのに男王について、またしても陳寿は口を噤む。男王は名前すらわからない。ここも「春秋の筆法」と言えるかもしれない。
とにかく、魏の倭国への内政干渉は大失敗だったということだ。この一連の流れが仲達の指示のもとであれば、陳寿が「春秋の筆法」を用いる理由も説明がつく。
ところでその内乱前後のことだが、難升米の存在が気になる。難升米は第1回の遣魏使節の中心人物であるが、内乱前の狗奴国との戦い時には詔書と黄幢を賜っている。賜ったのが女王でないところが不自然だ。難升米は『倭人伝』中に何度も名前が出て来るが、この詔書と黄幢を賜るところで突然姿を消す。壹與の代になると掖邪狗という人物が難升米の変わりを果たしているようだ。
とすると、卑弥呼後の男王は難升米であった可能性が強い。名を伏せた男王であるが、その直前に難升米が詔書と黄幢を賜ったのは、すでに王であったことを言っていると思われる。つまり魏の圧力で女王を廃し、男王を立てたが失敗したという一連の記事に「春秋の筆法」が使用されているのではないだろうか。13.思想的背景
卑弥呼は魏の内政干渉によって殺された。なぜ女王を廃す必要があったのだろうか。それは『魏志倭人伝』における思想的背景を考えてみると分かる。
中国は、前漢の武帝が専制君主を確立し中央集権体制を強化する一手段として儒教が採用され、思想の統一がなされて以来、清朝までの間、国家の基本的思想となっていた。
中国正史の最高峰『史記』の序文では、編纂の目的は「『春秋』を継ぐ」ことが強調してあるが、陳寿は『春秋』『史記』『漢書』に精通していたといわれる。『春秋』は孔子が魯国の年代記を整理、編纂したもので、儒教の教典でも最も重要とされている。『春秋』は簡潔な上に微妙な表現が多くとても難しいのだが、このことが『三國志』を読む上での第一級のヒントなのである。陳寿は孔子の教えに従い、司馬遷を模範として『三國志』を編纂したのだ。
卑弥呼が魏に朝貢したということは、形の上だけでも魏の臣下になったということで、魏の皇帝の影響は及ぶ。魏の側から見て、卑弥呼が廃されなければならない都合の悪い事情は何だったのだろうか。狗奴国との戦争責任というのは少し変だ。それは倭国側の事情であって、魏には関係ないだろう。
まず前提は中華思想である。魏は世界最大の文化国で、周辺は野蛮民族という考え方だ。「卑弥呼や倭人は野蛮人である」という偏見を持って考えなければならない。「鬼道に事え、能く衆を惑わす」これは決して褒めた言い方ではない。
そして儒教である。陳寿が儒教の影響を受けているのが明確にわかる箇所がある。「その俗、国の大人は皆四、五婦、下戸もあるいは二、三婦。婦人淫せず、妬忌せず、盗窃せず、諍訟少なし」
これは後漢の劉向の『列女伝』中の「七去の道」という儒教思想における既婚女性に対する七つの決め事と一致するのだ。「七去の道」とは、
1. 嫉妬 2. 淫乱 3. 窃盗 4. 長舌(おしゃべり) 5. 驕侮(傲慢) 6. 子無 7. 悪疾(不治の病)
このうち6.と7.については後に問題にされなくなったそうだ。
儒教は男尊女卑である。もっとも孔子はそのようなことは全く言っていない。もともと家族愛を説いたものが、いつのまにか女性に忍耐を強いるようになってしまったのだ。
『魏志倭人伝』が「七去の道」をはじめとする儒教思想のもとで書かれいることがわかる部分だ。14.陳寿の勘違い
もう一度「その道里を計るに、当に会稽東治の東にあるべし」の一文をよく見てみる。
ここで注意すべきは、この一文に限り陳寿の主観による記述であるということだ。「まさに、〜べし」は、つまり「自分の考えや計算によればこうなるハズだ」と言っているのだ。強調した言い方であることからも、陳寿にはそれなりの根拠があったハズだ。
これは陳寿の計算による机上のものであり、実際とは異なる計算結果になってしまったではなかろうか。陳寿の計算とは次の通り。
まず帯方郡は洛陽の東にある(八方位)。帯方郡から東南12000里で女王国である。洛陽から東南に12000里といえば東冶である。つまり、帯方郡から女王国へは、洛陽から東冶へ行くに等しい距離であることを言っているのではなかろうか。当時、東冶はよく知られていたので、周知の定点が不足しているのを分かりやすくするために計算したのだろう。
この計算により、孔子も憧れる儒教の伝説の理想郷と倭国がほぼ一致し、徐福伝説も含め、倭国は儒教思想の上で素晴らしい所ということになる。そんな理想郷についての新情報を書いているのだから、筆にも力が入ったことだろう。
日本列島の位置が大きく南にズレてしまったことも、卑弥呼を排除したことも、そして『魏志倭人伝』中に儒教の影響が見られることで一つの大きな意思(儒教思想)のの下で書かれていると言えるのではないだろうか。15.狗奴国
狗奴国についても触れておこう。狗奴国は邪馬台国と敵対する勢力で、邪馬台国の南に位置する。
王の名は卑弥弓呼、官の名は狗古智卑狗。「卑弥弓呼」ではなく「卑弓弥呼」ではないかという説がある。これならば「ヒコミコ」で「彦御子」「彦尊」のような感じになる。「狗古智卑狗」は「キクチヒコ」だろうか。
30国を束ねる女王国と敵対できる勢力となると、末廬国や伊都国のような1国ではなく、こちらもそれなりの連合勢力ではなかろうか。女王国が30国なら最低でも10〜20国程度の連合勢力であった可能性は高い。
『魏志倭人伝』の冒頭に「今、使訳を通ずる所三十國」とあるが、中国と交易しているのが30国。卑弥呼に従うのも30国。これが同一かどうかは分からないが、敵対勢力は別の中国、つまり呉に通じている可能性も考えられる。
ともかく、女王国連合30国に、狗奴国連合10〜20国と考えた場合、倭国全体の100か国のうち半分近くがこの両陣営のどちらかについている計算になる。もし邪馬台国を九州に比定すれば、倭国の全100か国の半数が九州に存在するという不自然な状態になってしまう。
狗奴国は邪馬台国の南だから、邪馬台国が大和であれば熊野あたりだろうか。「クマ国」が「クナ国」となったのかもしれない。
実は、「狗奴国は邪馬台国の南」と書いたが、厳密にはそうは書いていない。「その南に狗奴國有り」
「その」は斯馬国以下の21国を指すだろう。それらの南に狗奴国がある。邪馬台国連合諸国の南と書いてあるのだ。邪馬台国の南なのかどうかは分からない。北でないことは確かだし、南方ではあるだろう。しかし真南かどうかはまったく分からない。
私は『日本書紀』等で長く大和と争っている九州南部のクマソがピッタリではないかと考えている。伊都国や奴国を含めた女王国連合の南に位置しているし、地理的に10や20の国と連合することも可能だ。16.魏使は卑弥呼に謁見したのか
『魏志倭人伝』の地理情報の大半は九州北部のものだ。少なくとも不彌国まではどう見ても九州だろう。不思議なのは、ここまでは何里という細かな数字まで書いておいて、肝心の女王国になると途端に何日という曖昧な数字になってしまう。それまでは自然の様子、家々の様子、港の様子、途中の道路の様子などが書かれているのに、投馬国と邪馬台国に限っては人口や役人の名前だけで、町の様子や感想は書いていない。
魏使は「郡の使が往来し、常に駐る所」である伊都国までしか行っていないではないか。邪馬台国が大和であるなら、郡からの中間点付近である九州北部のことばかり細かく報告し、肝心の情報はほとんどナシというのはいかにも不自然だ。『夏休みアメリカ旅行記』を書くのに、大半は成田空港の話題で、「アメリカはとても遠かった」というのでは、旅行記としては失格だ。
魏使は伊都国に滞在し、そこで女王のことや女王国のことを倭人から聞いたのではないだろうか。そのため、伊都国の南に位置するクマソのことを女王国の南と勘違いしてしまったのではないかと思う。<未完>