血筋の系譜

宇喜多秀家


八丈島の流人となるが明治に入り許される

 宇喜多秀家は豊臣秀吉の養女(実父は前田利家)豪を娶り、官位も従三位権中納言に昇り、五大老に列するなど豊臣政権の中枢に位置する大名であった。
 関ヶ原の戦いの敗戦後、伊吹山中に逃れ、やがて薩摩の島津氏を頼った。島津、前田両氏の助命懇願により死罪だけは免れたが、駿河の久能に幽閉された。その後、長男・孫九郎、次男・小平次とともに八丈島に流罪となった。八丈島流刑史の中で、流人第一号は秀家とその子二人だろう。
 八丈島は江戸期を通して、約1800人余の流人が送り込まれたが、秀家一族は「宇喜多一類」「宇喜多流人」等と呼ばれ他の流人とは別格に扱われていた。そんなことで長男・孫九郎は代官奥山縫殿助の娘を娶った。
 孫九郎、小平次ともに二人の子供をもうけた、彼らの子孫は島の人々の中に溶け込み、島の娘と結婚して多くの家系を作る。秀家の妻の実家・前田家からは、明治に至るまで毎年白米70俵、金子、衣類、薬品、雑具など、多量の物資が八丈島の宇喜多家に届けられてはいたが、生活は決して楽ではなかったようだ。
 明治3年、新政府の恩赦により赦免され東京に入った。秀家が流罪になってから、実に260年以上たっている。この後一族は、士族に加えられ明治天皇より板橋に約20000坪の宅地を賜わっている。


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