血筋の系譜

松平忠輝


老中阿部家の冷ややかな対応に憤り割腹死

 松平忠輝は伊達政宗の長女五郎八姫を正室に迎えているが、子は側室於竹との間の徳松という男児だけである。忠輝が改易に処され、伊勢の朝熊金剛証寺へ追放となった際の同行は認められず、その後どこへ幽閉されたかは不明であるが、三代将軍家光のとき、老中で岩槻城主阿部正次に預けられた。
 徳松の母・於竹は書に長じてあり、阿部の家臣・東西孫右衛門なる者が彼女のために、無断で書を学ぶ便宜をはからった。ところがそれを知った正次は、将軍家への聞えをはばかり、孫右衛門に切腹を命じる。この阿部家の対応に、忠輝の実子としての自尊心を傷つけられた徳松は、激怒して岩槻城内の居所に火を放ち憤死した。時に1632年、18歳。先に於竹が、続いて徳松が屋敷を焼いて割腹したらしい。
 一方、忠輝は朝熊から飛騨高山、諏訪高島と流され、1683年、92歳で世を去った。死後、忠輝付きの家老久世半左衛門が諏訪藩の家老に提出した証文によれば、岩槻で果てた徳松の他には「上総介殿子息とては男女ともに一人も御座なく候」であった。


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