血筋の系譜

徳川忠長


ご落胤の噂のある謎の人物・長七

 2代将軍・徳川秀忠と織田信長の妹お市の方と浅井長政の娘・お江の方の次男に生まれた忠長だったが、兄・家光との折り合いが悪く、将軍の実弟という甘えからも粗暴な振る舞いが多かった。寛永8年(1631年)4月に父・秀忠により甲斐に蟄居を命じられた。その後、金地院崇伝らを通して父に赦免を乞うも、翌年に秀忠が没すると上州高崎城主・安藤重長のもとに幽閉された。寛永10年(1633年)12月、命運を悟った忠長は自刃し果てた。
 忠長と正室・織田信良(信長の孫)の女との間に子女はなかった。『幕府祚胤伝』は世間で忠長の落胤と噂の長七および武州秩父郡円福寺の13代住持仏眼祖円の二人を紹介しているが、長七という人物の経歴、領地等、いっさい不明。祖円も寛永15年から住職をつとめたとあるので寛永10年に28歳で最期ととげた忠長の実子にしては一寺の責任者としては若すぎると思われる。
 松平長七郎なる人物を忠長の落胤とする説がある。それによると慶長19年、なんと忠長9歳の時に長男として生まれ、名を長頼といい、父自刃後は幕府や紀伊藩の密かな保護を受け、西国を流浪し寛文元年(1661年)に和歌山で没したとされる。もちろん長七郎の存在を裏付ける史料はなく、名の長頼は多分、松平忠輝の子永見東市正長頼あたりと混同されたのではないかと思われる。


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