| 「天下の御意見番」と呼ばれた大久保彦左衛門は御恩と奉公の精神が失われていることに不満を持っていて、その精神を子孫に伝えたいために自家の歴史とともに記した『三河物語』を1622年6月に書き上げた。 この時15歳の長男忠名は、1607年の生まれで母は馬場右衛門信成の養女であった。彦左衛門が1639年、80歳で没すると家督を継ぐのだが、彦左衛門の生活信条となっていた名利にとらわれぬ義侠の教訓は、彦左衛門の期待通りながら幸か不幸か忠名に強烈な影響を与えている。 『三河物語』には、武功の士が軽視され、座敷の立居振舞で立身出世する世相が痛憤して書かれており、彦左衛門は今の主君(家光)には恩義はないとさえ言い切っている。 彦左衛門自身、自分の出世を顧みず、常に多くの浪人たちを養ってその就職活動に奔走していた。自分への冷遇に反発したというよりは、生まれつきの気質のような感じである。 そうした血を引き継いだともいえる忠名は、一族の面倒はよくみたが、それは反面、大久保家の低迷を強めることになった。家督を継いだ時に忠名は加増されていた600石のうち半分を弟の包教と政雄にあっさり分与し、忠名自身はその後、小譜代入りし1659年、52歳で無役のまま没した。 子の忠隆は書院番士となったものの23歳で早世し、忠名の三男忠直を忠隆養子に入れたものの、公爵に就けずじまいであった。末孫が豊橋市に現住している。 |