血筋の系譜

織田信長


次男、七男、九男は明治維新の際、子爵に列される

 織田信長が本能寺に倒れた時、嫡男・信忠、五男・勝長も行を共にした。
 信忠は自刃する際、前田玄以に当時3歳の長男・三法師を清洲城に移し守護するように命じた。その三法師、清洲会議において羽柴秀吉に推薦され織田家の後継者となったが、実態は秀吉の政権掌握に利用されたにすぎない。のちに元服して秀信と名乗るが、「信」の上に「秀」がついているところに秀吉の意図が見える。岐阜城の城主となり、のちに従三位権中納言と一応は優遇されているようだ。
 関ヶ原の戦いでは西軍として参加、木曽川で東軍を防ぎ、岐阜城に篭城したりした。だが、信長の嫡孫ということで恐れる者はなく、福島正則らに攻められ陥落。自刃しようとするが、正則に説得され降伏し、剃髪、高野山に幽居、1605年26歳で没した。
 信長の二男・信雄は三男・信孝と後継者の地位を争ったが、三法師に決まると後見役となり、清洲城に入り尾張を領地とした。賤ヶ岳の戦いでは秀吉と結び、信孝を自刃させた。翌年には今度は秀吉と争うが講和し、やがて正二位内大臣まで進んだ。ところが、小田原征伐の後、秀吉の転封命令を拒んだため改易され剃髪する。のちに徳川家康の斡旋で赦免されている。
 信雄と豊臣氏とには含むところが多く、関ヶ原の戦いや大坂の役ではたえず家康に情報を送っていたと言われている。そのためだろうか、豊臣氏滅亡後、幕府から大和と上野で5万石を与えられている。
 上野2万石は信雄の三男・信良に分与されたが、明和4年(1767年)その子孫の信邦が明和事件に巻き込まれている。この結果、藩主・信邦は隠居、養子・信浮は出羽へ転封、実父・信栄も隠居させられた。その後、天童に居を移し、維新で子爵を授けられる。
 一方、信雄の五男・高長は大和を継承したが、高長の孫・信武は元禄7年(1694年)明白な理由もなく家臣2名を斬り、自らも自殺してしまう。幕府は子の信休への相続は認めたが丹波氷上郡内2万石への減転という措置をとる。この後、維新の際に子孫の信親は子爵を授けられている。
 信長の七男・信高は近江の神崎郡などで2千石を領し、子孫は高家となっている。
 同じく九男・信貞も同国内で700石を与えられ、嫡男・貞置から高家に列している。貞置は茶道を大叔父・有楽斎長益に学び名人の誉れを得た。有楽没後は跡を継いで貞置流を称するにいたったそうだ。


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