血筋の系譜

松下加兵衛


出世、減封、改易から、結局中級旗本となる

 尾張を出奔した若き豊臣秀吉に、最初に目にかけてやったのが、当時今川義元に属していた遠江浜名の頭陀寺城主・松下加兵衛之綱である。ずっとのちに天下に号令をくだすようになった秀吉は、旧恩に報いるため徳川家康領で30貫文の所領を与えられていた加兵衛を、家康にことわって招き遠江久能寺で16000石を与えた。思いもかけず大名まで累進した彼は、秀吉に先だつこと半年前の1598年2月、62歳で没した。
 加兵衛の嫡男重綱は、当初は豊臣秀次に近侍していたが、加兵衛の死後は家康に従うようになり、関ヶ原の合戦では東軍に属し、岐阜城攻撃に参加、美濃の郷戸川を越えて石田三成の兵と戦い、自ら首50余を得る奮戦をした。9月15日の決戦では島津義弘の退却軍と戦っている。
 その後、重綱は家康の嫡男秀忠付きとなるが、許可なく居城の石垣を築いたため常陸の小張城に転封されている。しかし大坂の役では本多忠朝に属し、夏の陣では天王寺口で一番に進軍、首17の手柄をたて、そのため1616年、加増されて下野の烏山城で20800石を領した。
 さらに1627年、これまで会津の鶴ヶ城と二本松城を支配していた蒲生忠郷(氏郷の孫)が没し嗣子がいなかったので、会津に加藤嘉明が、二本松城には嘉明の婿であった重綱が5万石に加増され入封した。
 しかし間もなく重綱は二本松で49歳で没してしまい、嫡男長綱は幼少を理由に陸奥の三春城3万石に減封されてしまう。さらに1644年、長綱は狂気(?)のため改易となり、妻の父土佐藩主山内忠義に預けられる。
 松下家断絶の危機に、長綱の義父忠義は幕府内を周旋し、長綱の二男長光に3000石が与えられるようになった。
 松下家はこのまま中級旗本として幕末に至ったらしい。なお加兵衛には娘が3人いて、末娘は柳生但馬守宗矩の室となり、十兵衛三厳、飛騨守宗冬らを生んでいる。


●戻る

●歴史ページのホームへ