| 春日の局には稲葉正成との間に正勝、正利の二男があったが、彼女が三代将軍家光の乳母となった時に正勝は家光の小姓に登用され、長じて老中に昇進、1633年に小田原城主となっているものの、翌年に38歳で死去。嫡子の正則はわずか11歳だったが、春日局の計らいで斎藤利宗(春日局の兄)を後見人として相続が許された。 正則は4歳で生母に死別し、春日局に育てられたので、孫というよりは実子も同然で家光にも可愛がられ、四代将軍家綱には老中として仕え、1680年には11万石の増石をみた。 しかしその年に家綱が崩じ、代わって綱吉が将軍職に就任すると、正則は危機に直面する。家綱には嫡子がなく、五代将軍をめぐっては有栖川親王の擁立の声も高かった。綱吉はそれにひどくこだわり、就任後早々に正則を呼びだすと糾明した。これに対し正則はやんわりとかわし、「さすがは春日局の孫」と感心させた。お咎めはなかったものの正則は翌年御役御免を願い出て早々に家督を嫡男正往に譲り稲葉家を維持した。 春日局のもう一人の子正利は、家光の弟忠長に仕えたが、忠長が蟄居を命ぜられた時、細川忠利に預けられ、終生赦されることなく73歳の生涯を閉じている。 おそらく正利は、忠長の押さえと、万一忠長の天下となった場合の春日局の配慮だったのだろう。不幸にも稲葉家存続の捨て石にされたのである。春日局自身、夫の稲葉正成と離婚までして一族再興と子供の出世を願って家光の乳母になったのだから当然であろうか。 稲葉家の子孫は現在にいたっている。しかし麟祥院の春日局の墓や養源寺の稲葉家の墓に詣でる縁者はいないらしい。 |