| 1582年、本能寺の変が起こると信長に招かれ上洛中の徳川家康は危険をおかして伊賀の間道を抜け浜松に帰る。この時に家康の警護にあたった伊賀者の頭領格・服部半蔵正成はその後も家康に重用される。 1596年に没した半蔵正成の遺領はその子石見守正就が継ぎ、遠江に5000石を領した。 正就配下とされた伊賀者の同心たちは、元は正就と同輩の郷士であった。たまたま半蔵正成の指揮で戦功をあげたので、特に半蔵正成が取り立てられその下に服属させられたと考えていたので、正就の配下になることに不満があったのである。正就にとって配下の伊賀者たちは旧知の仲間であったにもかかわらず「慈愛を加ふべきを、さはせず、奴僕にひとしくかりつかひ、家作営造のとき、壁ぬり、材を切事までを課役し、其命にしたがはぬ者には俸米ををさへてさづけず」という処遇であったため、1605年「二百人の同心ども大にいかり、徒党して奉行所へ目安をささげ、弓銃を用意して近所の寺院へたてこもる」(『徳川実紀』)という反乱事件が起きた。その結果、正就の統率上の非も認められたため正就配下の伊賀者200人足軽大将大久保忠直らの下に分散服属させられることになった。しかし正就の方も訴えるところがあり、首謀の同心10人は斬罪に処された。 さらに正就は第2の失敗をおかしてしまう。処刑者以外に首謀者で逃走した同心がいたため、妻子をとって捜したところ自首して切腹した者もいた。ある日その残党の二人が居宅の前を通ったと思い込んだ正就は、二人を背後から斬殺。しかしこれは人違いで、伊奈忠次の従者であった。正就は改易され、妻の父松平定勝に預けられた。 1615年の大坂の陣で正就は失地回復のため松平忠輝の軍に参戦したが、天王寺口で討死した。 |