血筋の系譜

長宗我部元親


寺子屋の師匠となるが、大坂の陣で敗れさらし首

 土佐浦戸城主・長宗我部元親は1599年、山城伏見の亭に病没した。その跡は四男盛親が嗣いだ。四男が家督となったのは、長男信親はすでに戦死、二男親和、三男親忠はそれぞれ他家を継いでいたからである。
 盛親が家督を継いだ翌年の関ヶ原の戦いでは、徳川家康に味方する方針で家臣2人を使者として派遣するが、途中近江水口で石田三成方の手の者によって道が閉ざされたため東軍参加を断念、西軍に加担したらしい。また豊臣政権の五奉行の一人、増田長盛が盛親の烏帽子親であったことも大きい。
 関ヶ原で西軍が大敗し、盛親は残兵を率いて敗走、伊賀、大和を抜け、大坂から土佐に引き揚げた。その後家康に謝罪するために大坂に上り、旧知の仲の井伊直政の執りなしにより死一等を減じられた。だが領国土佐は没収され戦国大名としての長宗我部氏は滅亡した。
 改易後の盛親は、京都の相国寺門前に蟄居、幽夢と号した。身柄は数人の家臣とともに町衆に預けられ、放し囚人として所司代の監視下に置かれていた。京に蟄伏すること14年、その間は寺子屋の師匠として日々を過ごした。
 1614年、大坂冬の陣が起こると、豊臣秀頼の招きにより大坂城に入り、盛親のもとには多くの旧臣が馳せ参じた。夏の陣では兵5000を従えて八尾方面に出陣。藤堂高虎軍を大破したが、井伊直孝に敗れた。大坂落城より脱出して京街道を北に逃れるも、八幡付近の葦の中に潜んでいたところ蜂須賀家政の家臣に捕えられ京都に護送された。京中を引き廻され六条河原で斬首。その首は三条河原にさらされた。享年41と伝わっている。ここに長宗我部氏の嫡流は断絶した。一節によるとその子息は仙台藩伊達氏に仕え、名を津田丹波と改めたというが明らかではない。


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