| 室町幕府最後の将軍・足利義昭は、1596年に没する。義昭には義尋という子がいる。1572年に将軍家の嗣子として誕生するが、翌年に父・義昭が織田信長により追放され、義尋は人質として信長の監視下に置かれていた。義昭が豊臣秀吉に帰京を許された時に義尋も大乗院の法嗣として入室する。義尋は大僧正に任じられるが、やがて還俗して足利高山と称した。高山は二人の男子をもうけ34歳で没した。 この二人の遺子はそれぞれ大僧正となり長命であったが、僧籍にあったため子がなく足利将軍家の嫡宗は断絶した。 また一説によると高山には義在と名乗る子がおり、島津氏を頼り、永山久兵衛と称して千石を与えられたといわれているが定かではない。(下の情報も参照して下さい) なお室町幕府の始祖・足利尊氏の子・基氏は、鎌倉公方家を興し、その子孫はのちに喜連川氏と称し幕末に至る。維新後は喜連川を本姓の足利に戻し、子爵に列せられ現在にいたっている。 |
| たまたま、ホームページを見ていましたら、ちょっと気にかかる事がありましたのでメールを書いてみました。 実は私は親から家の始まりは足利家だと聞いた事があり、西南戦争の前までは鹿児島の高山というところに住んでいて、薩摩藩にいたそうです。家に残る書物などもその時ほとんどが焼けたらしく昔の物そのものはあまり残っていません。ただ、その後にどこかの寺に書いてもらったものがいくつかあります。 西南戦争のおり、薩摩軍の侍大将であった永山弥一郎という人が親戚筋にあたるそうですが、その時の長男は捕らえられ、その後北海道に行ったと聞きます。永山休二という人も親戚だそうです。私としては島津家の小姓をしていた弥一郎の方が出世したのではと思うのですが・・・・・・。 弥一郎は島津家の殿の幼少時代の遊び相手だったらしいですそして北海道に逃げたその長男はその時に家督の相続権を失い、次男であった人が家臣とともに逃げてきて家督を継ぎ、その人が私の直接の祖先になるそうです。その時の長男は20歳ぐらい、家督を継いだ人はまだ子供だったそうです。家系図も残っているそうですが、それは今、分家が持っているため父は見た事があるそうですが、残念ながら私は見た事がありません。家紋は足利家や今川家などと同じ、丸に二本の線が横に入っています。女性にも別の紋があります。親戚が集まったときにチラッと聞いたのが今の先祖は足利であるという事です。 私の親戚のほとんどの男はすべて名前に”義”という字がついています。父の代からはそういうのがなくなり、私も名前に義がついていないのですが祖父の代までは、長男には絶対に義という字を継いでいみたいです。これが、島津氏の義なのか、足利氏の義なのかは私には分かりませんが、薩摩藩の家臣であった事は確かです。今憶えていて知っているのはこれぐらいです。 |