| 大学長広は浅野内匠頭長矩の弟で赤穂領のうち新田3000石を分地してもらい、幕府旗本寄合に列していた。1694年、長矩が大病を患い危篤に陥った時、幕府に届け世嗣のいない長矩の養嗣子となっていた。ところが1701年3月14日の吉良上野介への刃傷事件により兄・長矩は即日切腹、浅野家は城地召し上げ断絶となり、大学も翌3月15日閉門を申し渡され木挽町の屋敷へ引き蘢った。 その後、大石蔵助らが大学を跡目に立てて浅野家再興の運動を行ったが効を奏しないまま1702年7月大学は閉門を免され広島の浅野本家へ永のお預けとなる。ここに赤穂浅野家再興の望みは断たれてしまった。 大学は妻子を連れて8月に広島に到着、屋敷を賜り、米1000俵を宗家から支給された。1709年の大赦で大学の広島本家永のお預けもご免となる。 1710年、本家安芸守吉長の斡旋で6代将軍・家宣にお目見えし、房州の平・朝夷両郡のうち500石を賜り、旗本寄合に列せられた。大石らが熱望した主家の存続は46士の切腹から6年後、大名ではないが旗本として達せられた。 この大学長広の跡が赤穂浅野家の祭祀を継ぎ、11代目・浅野長楽(ながら)も至ったが、昭和61年(1986年)に病死。世嗣はなく、赤穂浅野家は再び断絶した。 |