
| 1997. 8.13.OPEN | 2000.
2. 7.加筆 2001. 1. 3.加筆 2001.10.29.修正 |
これは私Minstrelが史実、異説、風説、伝説等を集め、整理し、推理を加えて考察した歴史遊びです。錯覚したり鵜呑みにして勘違いを引き起こしても何の保証もありませんのでそれぞれの解釈、遊び心次第でお楽しみ下さい。楽しくなくても、これまた何の保証もありません。
| 過去という永遠の闇に消えてしまった事実がある。この永遠の闇にライト当て、わずかに見えたものを組み合わせ判断したものが歴史である。闇すべてを照らすことは出来ない。過去に行けばいくほど深い闇に閉ざされている。組み合わせ方は他にないだろうか?他の判断はないだろうか?ライトに照らし出されたものを見てみよう。組み合わせによって意外な歴史が浮かび上がるかもしれない。その判断は個々にお任せしたい。 |
天正10年(1582年)6月2日払暁、破竹の勢いで天下を握りつつある織田信長が部下である明智光秀の謀反により京都・本能寺に倒れる。羽柴秀吉ら信長の部下たちは各地に散り、信長自身もわずかの手勢しか連れておらず、光秀は信長打倒の絶好の機会を生かしたのである。だがこの後、毛利に苦戦中だった秀吉がアッという間に和睦をまとめ、京都に戻り、明智勢と合戦、光秀はわずか10日余りで討たれてしまう。最期は農民に竹槍でつかれるという悲惨なものだった。光秀を討った秀吉がやがて天下を取る。 |
| 言うまでもなく、本能寺において主君を討ったのは明智光秀である。ほとんど常識である。しかし、本当にそうだろうか。いくつか疑問点を挙げておく。 事件は6月2日夜明け前に起こっている。時刻は午前4時頃で、出火炎上したのは午前7時から7時半と推定される。 ところが光秀が上洛したのは午前9時頃という説がある。つまり、事件当時光秀は現場に到着していなかったというのである。ならば光秀はどこにいたのだろう。これに関しては残念ながら正確な史料は残っていないのでわからない。 事件の3日前の5月28日(この年の五月は29日まで)に愛宕山に登っていることは確かである。一般には翌日に下山したように思われているが、権中納言山科言経の日記『言経卿記』によるとこの日はどしゃ降りで下山は不可能であったという。従って、下山は6月1日になってからということになり、この後、丹波の亀山城に戻り、1万3千の兵を率い、2日早くに京に入るのは不可能だと思われる。 これについては真相はよくわからない。が、本能寺の変についてナゾが多いということは言えるだろう。 |
明智光秀は、織田家に中途採用された人物であるが、頭がよく、インテリで、同じく中途採用の秀吉と出世街道を爆進中であった。主君・信長を討った本能寺の変は光秀の個人的な恨みによるものであるとよく聞くが、果たしてそうなのであろうか。古来から信長襲撃の引き金として語られる話しは一つしかなく、それは家康の接待役を務めていたが、信長が満座の中で光秀に屈辱を与えたために面目を失ったというもの。これは江戸時代の入ってから成立した川角『太閤記』にのみあるという。もちろん川角『太閤記』は史料価値のあるものだが、これだけでは説得力に欠けるだろう。 戦国時代に関する情報を得る際、そのほとんどは江戸時代以降に書かれたものであり、比較的近い時代に書かれたものもあれば、それらを基に書かれた二次的な史料、単なる小説もある。全部を鵜呑みにすると混乱を招くだけで、原典の分析を伴った研究が必要である。しかし実際は様々な史料が混ぜこぜになって使用されている場合が多く、そのため多くの説が乱立することになる。(このページのものもその一つかもしれないが) 国替えや生母を見殺しにされた恨みが直接の原因であるとも言われている。だが、信心深く、慎重で頭の良いな光秀が一時の激情に任せ、安直な行動に出るだろうか。用意周到な光秀が、多少の計算違いがあったにせよ、その後アッという間に討たれてしまうようなことをするとは私は考えにくい。だが事実、光秀は行動を起こし、間もなく討たれてしまった。事実といえばそれまでだが、どうにも不可解に感じる。 実は明智光秀という人物が歴史上に登場するのは40歳を過ぎてからである。それ以前、どこで何をしていたのかはよく分からないのだ。土岐氏の流れの出身で、40歳を過ぎてから朝倉家や将軍足利義昭に仕えた後、信長の部下になっている。信長に仕える以前でわかっているのはこれくらいなのだ。従って、年齢もハッキリした数字ではない。 |
| 頭が良く、計算高い光秀が一人無謀な策に出たのか?いやそうは思えない。光秀の背後から糸をひく人物がいたのではないだろうか?単独行動ではなく、光秀を納得させ行動させた人物がいたとは考えられないだろうか。 もし、光秀の単独行動であるならば、もっと事件前に色々な調整をしたはずである。各地に信長に敵意を持つ勢力も多かったし、朝廷や公家とも通じるはず。細川親子や他の信長の家臣たちに対する働きかけも十二分にあったはずだ。信長にバレることを恐れたのかだろうか・・・。 本能寺襲撃の最終決定は直前のことであったようだ。しかしこれは光秀の優柔不断さを物語っているのではない。慎重さを表わしている。当時、戦さの直前に歌会を開く風習があったのだが、光秀も愛宕山で歌会を開き、次のような歌を詠んでいる。 「時は今 あめが下しる 五月哉」 「時」は「土岐」、「あめ(雨)が下しる」は「天下」を表わし、土岐氏が天下をとることを暗示しているのだ。光秀の心はこの時に決まっていたと思われる。既に何者かとの打ち合わせは完了していたのではないだろうか。 事件の背後関係を考える場合、事件によって最も良い思いをした者があやしいと考える。本能寺の変で最も良い思いをしたのは・・・? |
まっ先にピンと来るのは羽柴秀吉だろう。秀吉と光秀とは出世争いのライバル関係にあった。事件当時、秀吉は中国攻めで毛利と戦い苦戦中。なんとか備中高松城を落としものの、信長に援軍を要請し、毛利本隊との決戦を間近に控えていた。要請を受けた信長は光秀とともに秀吉の援軍にむかう途中だったのだ。 このような状況下、本能寺の変を知り、決戦間近で意気の上がる目前の敵・毛利と和睦し、新幹線もクルマもない時代に中国大返し、実質5日間で京都に戻り、疲れをとる間もなく戦上手の光秀と決戦、これに勝利する。あまりにも出来すぎた話しではないだろうか?移動距離は1日約40キロの計算になる。フルマラソンを5日連続で走った直後に生死をかけた決戦に挑むわけだ。現実的な話しとは思えない。もし、光秀と秀吉が通じていて、信長襲撃を最初から知っていたとしたら・・・?秀吉も信長を恐れていた。恐怖の大魔王と呼ばれた信長が死ねば天下は秀吉に転がって来るかもしれない。事実、この後、秀吉は天下人となった。光秀と共謀したのは秀吉だろうか? だが共謀相手の光秀と直後に戦いになっているのはどうしたわけか。信長襲撃は打ち合わせ通りだったが、秀吉は光秀を裏切り、最初から信長の次は光秀を討ち滅ぼすつもりだったのか。秀吉の方が一枚上手だったのかもしれない。だが、それにしても毛利と決戦間近であったことも事実で、もし毛利との和睦に失敗していれば、光秀が天下人である。秀吉説はどうも辻褄が合わない。 |
| 昔から天皇家はその権力が危うくなると、陰謀を企てている。古くは長屋王の事件があり、源頼朝に対し義経を操ったり、足利尊氏に対し新田義貞を操ったりしている。江戸時代幕末にも似たようなことがあった。天皇家の陰謀の場合は、それが陰謀とならずに認められてしまうところが怖い。光秀は天皇家の陰謀にはめられ、見捨てられたという線も考えられる。皇太子の誠仁親王はなぜか変後に自害している。光秀と結託していたのだろうか。 信長はすでに足利将軍家を排除しているし、自らが天皇、またはそれに変わる絶対的権力者になろうと考えていたかもしれない。織田家は源氏の流れではないために将軍にはなれなかったという考えもあるが、秀吉は貴族でないのに関白になっている。家康も源氏ではないのに源氏の子孫になってしまった。信長が将軍になる以上のことを考えていたとしても全く不思議ではないだろう。当時、天皇や公家が信長に対し緊迫感を持っていたことは事実であろう。かたや光秀は天皇を敬う気持ちがあったのではないか。 だが私は乱世に生きる武将である光秀は現実的な損得の計算もしたのではないかと考える。自分が捨て石になり天皇を守ることに意義を感じただろうか?天皇黒幕説はなかなか魅力的に感じるが、ここでは結論を出さないでおく。皆さんのご意見もお聞かせ願いたい。 |
| 細川親子がアヤシイという話しも聞く。幽斉と忠興である。確かに細川氏はたいした功績もあげていないのに後年、大大名になっている。 足利義昭もアヤシイ。しかし、毛利氏が事件を知らなかったところが矛盾する。 また疑うなら濃姫も疑える。信長と濃姫は政略結婚にすぎない。濃姫は死後、なぜかどの寺院からも埋葬を拒否されている。これはどうしたことだろう。 |
さて、もう一人アヤシイ人物がいる。徳川家康である。実は私が黒幕とにらんでいるのはズバリ、家康だ。他の容疑者も一人ずつ吟味するのが筋だが、長くなりそうなのと本題に一直線に進みたいのとでここでは触れないこととする。興味のある方をそれぞれチェックして見てほしい。家康は長男を信長に殺されたようなものであり、恨みはあるし、強大な信長との同盟関係は名ばかり、実際はまったく逆らえず、半家臣状態である。つまり動機はあるということだ。合戦の時の陣や岐阜城、安土城で家康と光秀が密会する機会はいくらでもあっただろう。 本能寺で信長が討たれた時、わずかな手勢の家康は堺見物中だった。事件を知った一行は光秀に襲われるからと、街道ではなく伊賀の山中を抜け、伊賀忍者の助けをかりて領地に帰っている。これはヤラセではないだろうか?根拠は次の項で述べる。 家康が絡んでいないように見せるために少ない手勢で堺見物をしたが、全て計算されたものではないだろうか?家康にとって唯一計算外だったのが、秀吉の「中国大返し」だったのでは?と考えてみる。 |
| 光秀の出自は土岐氏一族である。土岐氏といえば源氏の流れを持つ名門。戦国期には岐阜(稲葉山城)をおさめていた。だが下剋上の世、土岐氏は斎藤道三にその座を奪われてしまう。信長の正室の濃姫はマムシの道三の娘。つまり光秀の宿敵と信長は親戚関係なのである。 光秀の一族はもともとは伊賀の出身である。ここに矛盾がある。光秀の手を逃れるために、家康は光秀ゆかり地である伊賀を通り、攻められるどころか守られて帰ったというのだ。家康と光秀が裏で通じていたことはここに見い出せるのではないだろうか。 土岐氏は斎藤道三に城を奪われた後、武田氏や松永氏を頼っていたが、江戸時代に入ると所領を安堵されている。謀反人・光秀の出であり、家康と同盟関係の信長の敵にあたる土岐氏であるのにもかかわらず。江戸幕府は何を考えているのだろう。 同時に江戸時代には土岐氏や光秀の祭り(名前を忘れてしまった。どなたかご存知の方、教えて)を許してもいる。信長殺しの光秀は謀反人として後世に残るはずが、江戸幕府では容認していたようにさえ見える。光秀について悪く書かれた文書のいくつかが幕府によって消されたという話しもあるそうだ(未確認だが)。天下を取った徳川家と光秀の間には何やらアヤシイ雰囲気があるのは確かである。 |
| 本能寺の変後、うまく逃れたのは家康だけではない。光秀もまたうまくその姿をくらましたという説がある。つまり、秀吉に敗れた後、竹槍に突かれて死んだのは光秀の影武者だったというのだ。光秀は信仰心が強く、信長を排除した後に自分も死んでいいとは考えなかったのではないだろうか。 計算高い光秀は事件後のことも当然考えていただろう。「三日天下」となってしまうほどの無様をさらすことはなかったはずだ。 だが、この後歴史上に明智光秀という人物が登場することは二度とない。秀吉と並ぶ有能な武将は本当に死んでしまったのだろうか。届けられた光秀の首は、すでに腐敗が進み、誰の首か見分けはつかなった。 |
岐阜県のとある町に伝わる伝説がある。生きのびた光秀は中洞(なかぼら)村(現在の美山町中洞)にかくれ住んでいた。秀吉との合戦に勝てないと見た荒木山城守が身代わりとなって農民に竹槍で突かれ死に、光秀は荒深小五郎(荒木の恩の深さを表わしている)と名のり静かに暮らしていた。関ヶ原の合戦の時に家康に見方しようとしたが、途中厚見郡藪川で洪水にあい死亡。家来の又五郎、忠右衛門、彦太郎、親兵衛らが、遺品を持ち帰り、中洞に墓をたてた。これが今の中洞上ノ街道古屋敷というところにある石の塔と五輪の塔で、墓は桔梗塚と呼ばれ現在も残っている(写真)。 光秀の家紋は桔梗である。 |
比叡山のある寺に不思議な石灯籠がある。その灯籠には次のような字が刻まれている。「慶長二十年 奉寄進願主光秀 二月十七日」。つまり慶長20年2月17日に光秀が寄進したというのだ。この光秀とは何者だろう。江戸時代に明智光秀が生きていたのだろうか。大阪・岸和田にある本徳寺という寺には光秀の位牌が残っている。その光秀の位牌の裏にもまた謎めいた文字がある。「当寺開基慶長四巳亥」とあり、慶長4年に寺の寄進者になっているというのだ。慶長年間に光秀が生きていたことになる。この位牌には他にも文字が書かれているのだが、上から漆が塗られ消されている。何が書いてあったのだろう。何とか解読してみたいものだ。 また、この本徳寺には唯一の光秀の肖像画が残っている。この肖像画にもやはり光秀が生き延びたのではないかと思わせる一文がある。それは「放下般舟三昧去」の部分で、つまり、仏門に入り去っていったということである。光秀はこの寺に来て、仏門に入り、その後寺を出たのだろうか。どこへ行ったのだろうか。本徳寺は光秀の子が住職だったことがあることでも知られている。 光秀が生き延びた可能性を窺わせるものを紹介したが、生き延びたのであればその後の光秀はどうなったのであろうか。肖像画に書かれているように、仏門に入ったのであろうか。最初の推理通り、本能寺の変の黒幕が家康であるなら、どこかに接点が出て来ないとおかしい。 |
さて、家康の相談役的な存在に南光坊天海という人物がいる(写真/東毛歴史資料館)。「黒衣の宰相」と呼ばれた人物である。名前の通り仏教僧だが、関ヶ原の合戦の頃、突如歴史上に登場する。それ以前、どこで何をしていた人物なのかは不明。一応、1536年に生まれ1643年に病没ということはわかっているが出生は不明。一応、1536年に生まれ享年108歳と伝えられているが120歳という説もあり推定の域を出ない。「私は一度死んでいる」という風説も聞くが、この天海こそ光秀ではないかと疑いたい人物なのだ。『明智旧稿実録』では光秀は1528年生まれとされているが、これも確かな数字といえるかは微妙なところのようだ。この定説でも10歳の差もないので、確定的なことが言えない両者の年齢では誤差のうちと言えるのではないだろうか。『両大師伝記』では、天海は足利義澄(11代将軍)の子とされている。武田信玄の生まれ変わりという説もある。天海はかつて信玄の保護のもと論席を開いている。おそらくこれは天海の家康への献策、具申が信玄の政策と似ているところからのものではないかと思う。 天海は、関ヶ原の合戦の頃に突然家康の側に仕えるようになり相当の信頼を得ているが、これは高僧だからということなのだろうか。同様に家康周辺には何人かの僧がいたが、この中でも最も信頼されているようだ。しかも僧であるにもかかわらず、戦術に優れ、合戦の際には作戦会議で意見を言ったりしている。当時、僧と言えども戦さの知識はあったものだが、それにしても他の歴戦の武将を差し置いて相当な戦さ上手の僧というのも不思議な気がする。 天海の姿は『関ヶ原合戦図屏風』で見ることが出来る。この中では最後方の家康の近くで鎧をつけている。「南光坊」と書かれているので間違いない。僧でありながら鎧をつけているのだ。何とこの鎧、大阪城に現存している。大小の立派な角があるところなど、敵から身を守るための鎧というよりは、身分の高さや威厳を表わしているように思えるがどうだろうか。 関ヶ原後も天海は家康の最重要側近として重用され、秀忠、家光にも仕えている。天海が家康に仕えただけでは光秀との接点は何もないが、実は意外なところから光秀との接点が出てくる。 |
3代将軍・家光の育ての親は春日局であるが、通常春日局には誰でも会えるわけではない。後の将軍になる人の親の立場なわけだから当然だろう。だが、天海だけは例外である。それどころか、春日局の方がへりくだった態度をとっているように思えるふしがある。初めて春日局と天海が会う場面で、春日局は平伏し「お久しゅうございます」と言ったというウワサがあるが、とすると初対面ではなかったことになる。春日局と天海はどういう関係だったのであろうか。春日局は土岐氏に仕えた斉藤利三の娘である。つまり謀反人・光秀一族の側の人間なのである。謀反人に近い人物が次期将軍を育てる。それも家光の母は信長側の血筋のお江の方である。お江の方にとっては、時と場所を変えて敵に出会ったようなものかもしれない。とても我が子を託す気になどなれなかったであろうと私は想像するが。 この不思議に輪をかけるような話しがある。が、これは後にあらためて述べる。 土岐氏出身の春日局と光秀。もし光秀が生きていたら、当然光秀の方が格上である。天海が光秀であれば平伏するのは当然のこと・・・。 |
日光東照宮の雛形として家康が造営を命じた秩父神社という神社がある。この神社の拝殿と本殿の幣殿東側面には竹笹を持つ僧侶らしき人物の彫刻がある(写真)。飛騨の工人・左甚五郎作と言われるもので、日光東照宮の「眠猫」等も彼の作品と言われている。が、この人物も架空の人物という説が強い。妙見信仰関連の彫刻の中の一つの彫刻にすぎないのだが、よく見ると桔梗紋をつけている(写真では小さすぎて見えないが実際に見るとハッキリわかる)。明智の桔梗である。秩父神社ではこの彫刻以外には徳川の葵紋があるが、この人物だけ桔梗なのである。桔梗の僧侶。秩父神社の造営時には天海の弟子が派遣されていることからも、「桔梗」から光秀を、「僧侶」から天海を連想させる。また秩父神社の南に慈眼寺、その近くに明智寺もあるが・・・? 2代将軍・秀忠、3代将軍・家光の名付け親は天海だが、日光東照宮にはこの時の文があり、斜めに折り畳むようになっているのだが、何と、折り畳むとそれぞれの一字が現れ「光秀」となるのだ。考えすぎかもしれないが、4代将軍・家綱、5代将軍・綱吉に共通される「綱」も、明智光秀の父「光綱」の名から意図的に抜き出したという説もある。 |
風水学的に言って、江戸はかなり良い条件を備えた場所と言われるが、唯一のウィークポイントが北の方角なのだそうだ。ここに徳川を守るものを置けば完璧となる(筆者、風水の知識ゼロのため人に聞いたものそのまま)。こう進言したのも天海である。家康が死に、江戸の北にあたる日光に東照宮を建てる際に指揮したのも天海だ。この東照宮にもまた多くの謎がある。![]() 日光東照宮は日光山輪王寺に隣接していて、家康の遺言を受けた天海らが中心となって、久能山(静岡県)に埋葬されていた家康の遺骸を改葬して祀った絢爛で豪壮な霊廟である。元和3年(1617年)に原型が出来上がり、家康21回忌法要を機会に大改修がなされ、寛永13年3月に完成した。天海は遺言に従い、山王一実神道に則って「東照大権現」という神号を朝廷から貰い受けて日光山に家康を祀るとともに、代々の将軍は「日光参詣」を行うことによって、徐々に神格化していったのだった。日光東照宮は江戸幕府最後の砦を目指して造営されたものであるとも言われ、天然要害の日光連山の地にもかかわらず構造物に石材を多用している他、装飾品には銅など、鋳造しやすい金属をふんだんに使用し、弾丸に転化できるようにしているという。 さて、東照宮は東照大権現こと家康を祀ってあり、当然ながら徳川家の葵の御紋がたくさん見られる。しかし、陽明門を守る木像の武士の紋はなぜか桔梗である(左写真/足の部分)。光秀の桔梗である。さらに、陽明門の前に立つ鐘楼のひさしの裏には隠れるようにおびただしい数の桔梗紋がある(右上写真)。実際に見ると不気味なほどである。表向きには徳川だが、密かに桔梗紋が沢山入り込んでいるのだ。これは何を意味しているのだろうか。 東照宮というと日光が有名だが、他にもある。群馬県の世良田にも東照宮がある。世良田というと、徳川という名の発祥の地とも言える場所であるが、この世良田東照宮もやはり天海が作っている。もともと長楽寺の一部だった場所で、天海も住職をしていたことがある。近年、徳川埋蔵金伝説で有名になっているようだ。 |
春日局の項で少し触れたが、なぜ織田家の血が流れるお江の子・家光を光秀側の人間である春日局が育てるのであろうか。乳母は公募で、春日局の夫である稲葉正成が関ヶ原の合戦で小早川秀秋に仕え、家康勝利に大きく貢献した功績を認められてのものと説明されているようだが、それにしても天下を治める将軍を育てるという重職についたばかりか、この後春日局として絶大な力を持つことになるのである。大奥を謀反人に近しい人物に仕切られていて良いのだろうか。織田家の敵にあたる人物をこれほどまでに重用したことだけでも家康が信長と親しい関係ではなかったことがうかがえるのである。 さて、三代将軍・家光にも謎がある。『東照大権現・大猷院・慈眼大師板絵』(右写真)という絵は家康、家光、天海という変わった3ショットが描かれている。家康、秀忠、家光というならわかる。2代将軍がいない変わりになぜ天海なのだろうか。2人の偉大な将軍とともに描かれているというだけで不思議だ。家光の「家」は言うまでもなく家康の「家」だ。では「光」はどこから来ているのだろうか。まさか光秀の「光」ではないだろう。万が一にも光秀の「光」であるとしたら・・・?そう考えたくなる物証がある。 ![]() 秀忠・お江夫婦が次男・忠長をかわいがり、家光ではなく忠長を将軍にしたがったのはなぜだろうか。後に忠長は家光に命まで奪われている。 少なくとも、陽明門の桔梗紋、謎めいた天海、そして春日局と、謀反人のはずの光秀の匂いが強く徳川の世に残っているということは言えるだろう。 |
さて、突然ここで話しは大きく飛ぶ。童謡の「かごめかごめ」である。日本人なら誰でも知っているあの歌である。昭和36年に出版された全国童唄集『わらべうた』では、この歌の発祥の地を千葉県野田市の愛宕神社(写真)としているが、そういえば本能寺の変の前の光秀の連歌会の場所も愛宕神社であった。(私は愛宕神社と「かごめ」を結び付けるものは何も知らない。情報求む)ところでこの歌の意味をご存知の方はいるだろうか?ご存知ならば教えて頂きたい。謎なのである。一説には天海が残した謎掛けだという話しがあり、興味を持って早速色々調べてみた。意外に面白いことが出て来る。 この唄は江戸時代の『竹堂随筆』という童謡に関する最も古い文献にも登場しているが、現在のものとは少し違うようだ。しかし歌いつがれてゆく童謡に正式なものなどあるはずもなく、わかる範囲内で考えるしかないだろう。 「かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀がすべった 後ろの正面だあれ」「出やる」は「出よう」という説もあるが定かではない。私もこの歌の解読は出来ないが、少しだけ考えてみたいと思う。ここでこれを取り上げるのは、この歌が天海の作とされ、また光秀とも関係がありそうだからだ。 |
| まず「かごめ」である。おそらく「籠目」であろう。籠を編んだ六角形のことを言っているのではないか。「籠の中の鳥」は「六角形の中のニワトリ」と考えられる。なぜニワトリかというと、この歌の2番に出てくるからだ。2番があること自体知らない方があるかもしれない。2番もやはりかなり難解である。後で紹介しよう。その前にニワトリだが、ニワトリは古来から時を告げる鶏であった。「時を告げる」は「土岐をつげる」ではなかろうか。つまり光秀(天海)や春日の局ら土岐氏の存在を暗示しているのではないだろうか。 「いついつであう」は「いつ存在を明らかにするのか」ということ。これは「この歌の謎が解かれるのはいつだろうか」とも思えるし、「土岐氏はいつ登場するのか」とも思える。 「夜明けの晩」はおかしな表現だ。「夜明け」だけとって「早朝・明け方」という意味合いで理解されている場合が多いようだが、「晩」を無視するわけにはいかない。「晩」とは太陽が沈む時間、つまり夕方をいう。直訳すれば「明け方の夕方」となり意味が分からない。「の」ではなく「と」ならまだ少しはマシだ。「明け方&夕方」という意味になり2つの時間帯を表わしていることになる。 「夜明けの晩」を方角を表わしていると考えてみる。時間と方角は密接な関係にある。「鶴と亀」はいずれも日光東照宮にいる。「すべった」は「統べった」で、つまり「鶴と亀が統治した」となり、「鶴と亀」は「徳川と土岐」ということになるのではないか。天を舞う鶴が徳川で、亀が土岐だろうか。 日光東照宮の中の眠り猫の門を過ぎて奥の院に向かって階段を上ると家康の納骨堂がある。その前の小さな池に鶴と亀がいるのだ。鶴は鍵をくわえている。どこの鍵なのだろうか。東照宮の中央に「鶴と亀」の彫刻を置いたのも意図的なことではないかと思う。縁起の良い鶴と亀、天を舞う鶴と地を這う亀が一緒にいるということは、天と地が秩序が正しいということだろうか。社殿の配置的には、表門を入ると正面にこの中神庫があり、この軸線をまっすぐ北に延長すると本殿をかすめて奥社を、逆に南に延長すれば参道を経て、江戸を指していることになる。 |
| 「かごめかごめ」を作ったのが「天海=光秀」と仮定し、彼の視点からもう少し考えてみよう。明智家の出は岐阜の可児である。可児から夜明けの方向を見ると日光があり、後ろの正面となる晩の方角はその逆方向になる。あの本徳寺がある方角である。本徳寺を後にした光秀は天海となって江戸、日光に向かったのだろうか。これら全てが偶然とはとても思えない。 家康が葬られたのは静岡の久能山である。久能山から見て鬼門の方角には富士山、世良田東照宮、日光が並んでいる。逆に日光東照宮から見て裏鬼門の方角には天海が祀られ、慈眼堂が建てられている。これも偶然ではないだろう。 また可児と家康ゆかりの久能山、幕府直轄地で経済の源とも言える佐渡金山、明智一族が移動した福井、そして江戸、日光を結ぶと六角形、つまり籠目になる。 ちなみにイスラエルの国旗にあるダビデの紋も六角形のカゴメである。天海のもう一つの名を慈眼大師、フリーメイソンの目を思わせ籠目の六角形とも繋がる。光秀が信長に仕えていた頃、信長の娘婿・蒲生氏の家臣にユダヤ人のロルテスがいた。ロルテスは蒲生の家臣として西洋の会計や測量技術をもたらしたが、光秀はロルテスの影響を受けているのではないか。彼の築城術はここから来ているのかもしれない。この築城術で日光東照宮を建てたかもしれない。東照宮はまるで要塞のようである。 |
| 「かごめかごめ」が徳川家、明智家、天海が絡む複雑な暗号歌である気がして来ただろうか。この歌の続きを紹介しよう。これは当サイトの掲示板に入った情報によるもので、信憑性を感じるものだったのでここで改めて紹介する。詩人の谷川俊太郎氏の編による『日本マザーグース』の中で紹介されているらしい。 「向こう山で鳴く鳥は、信心鳥かニワトリか。銀三郎のお土産に何と何とを買って来た。金ざし、かんざし、買ってきた。納戸のおすまに置いたれば、きうきうネズミが引いてった。鎌倉街道の真ん中で、一抜け、二抜け、三抜けさくら。さくらの下で文一本ひろった。あくしょ、あくしょ、一本よ」 最後の歌詞には別のものがあり「鎌倉街道」以下が次のように変わる。「その文だれだ。金三郎の妻だ。金三郎の妻はさんしょにむせた」と続く。 さっぱりわからない。後で別の人が付け加えたもので何の関係もないものかもしれない。しかし一概にデタラメとも言えなさそうである。「一抜け、二抜け、三抜け桜」は、東照宮の門を表わし、表門、陽明門、唐門を抜けると拝殿に至り、その拝殿には三十六歌仙が桜の彫刻で飾られているのだ。この歌仙のどこかに謎があるのだろうか? 「文一本拾う」というから、「さくら」から1番目、2番目、3番目を抜いてみる。すると「くら」「さら」「さく」となり、「くら(蔵)」は地蔵岳、「さら」が「サル」なら庚申山、「さく(裂)」は石裂山というように考えられ、どれも日光周辺に存在する山の名である。 また「向こう山で鳴く鳥」に対応する可能性として東照宮の東南方向には鶏鳴山があるが関係ないだろうか。 「あくしょ」は「悪所」で難所という意味合いか。「さんしょ」は3つの場所だろうか。 現段階で私がわかるのはこれくらいだ。何かヒントをつかんだ方があれば教えて頂きたいものだ。 |
| ところでここで扱っている「かごめかごめ」だが、これが原初の形ではないと紹介した。もっと古い「オリジナルかごめ」がある。知られているもので最古のものは『竹堂随筆』におけるものだ。『竹堂随筆』の編纂は文政年間のようだが、18世紀のものが収録されていると考えられる。その時期が最古の「かごめかごめ」というわけだ。 歌詞については、「鶴と亀がすべった」ではなく「つるつるつべった」であり、これに続き「なべのなべのそこぬけ、そこぬいてたもれ」となる。つまり「亀」は出て来ないし「後ろの正面」もないのである。「つる」も「鶴」の意ではなく、「ツルツル」という擬態語ということになる。 歌全体の意味も現在知られている「かごめかごめ」とは違って来ることになる。 そこで問題になるのは、現代に知られている「かごめ」は当然のごとく後付けになるのだから、それを天海の時代のものとして謎解きをすることの必然性だ。最も古い「オリジナルかごめ」と天海の時代の17世紀半ば以前だと最短でも100年の時間差がある。現代の「かごめ」は昭和に入ってからのものとも言われている。すると天海との関連を云々するのなら最低でも「オリジナルかごめ」でなければおかしいのではないか。 しかしよく考えるとそうでもないように思う。それは「オリジナルかごめ」が決して「オリジナル」ではないからだ。文献で確認出来る最古の「かごめ」というだけで、決して「オリジナル」とは言えないはずだ。 「かごめかごめ」の児戯は中心に一人、その周囲を回って人を当てる遊びだが、そもそも超能力でもない限り見ないで人を当てることは難しい。この遊び自体、神懸ったものといえる。昔から伝わる神寄せを真似たものではないかと思える。実際、かごめかごめの遊びと地蔵遊びはかなり似ている。地蔵遊びは一種の儀式で、地蔵と向かい合わせにした人の周囲を歌いながら回り、やがて神懸った状態になるというもので、これがかごめかごめのルーツであると言われている。 この中心に一人いてその周囲を円形に囲む形は縄文遺跡のストーンサークルにも通じる形で、相当に古い形体ではないかと考えたくなる。少なくともこの神寄せの儀式が平安時代まで遡ることが可能であるというから、「かごめかごめ」自体もいつから存在しているのかまったく想像もつかず、『竹堂随筆』収録のものが「オリジナルである」とはとても言い切れないのである。18世紀頃に知られていた「一つのかごめ」がこの「つるつるつべった」の「かごめ」であり、『竹堂随筆』に記録されたということである。 それではここで取り上げた天海作ではないかと思われる「かごめ」は何なのだろう。後世に知られたからと言って必ず後付けとは言い切れない。『竹堂随筆』とは別に伝わったものかもしれない。すでに存在していた当時の「かごめ」を天海が目をつけ、改作したのかもしれない。 分かっていることは、神寄せの儀式がずっと古くから存在していて、「かごめかごめ」と深く関係があること、その時間の流れからすれば、『竹堂随筆』のものも含め最近の数パターンを知っているにすぎないこと、そして天海作かと疑いたくなるような意味深な歌詞を持ったものが一つ存在しているということだ。まったくのデタラメかもしれない。しかし様々な解釈が出来るのもまた事実なのだ。 |
| 明智光秀が生き延びた伝説は確かに存在する。天海僧正と光秀とのつながりを暗示させるものも多い。だが「伝説」や「暗示」で歴史の定説は変わらない。小さな可能性を示しているだけである。私が結論として言えることは「謎である」。だから歴史は楽しい。 東照宮に程近いところに中禅寺湖や華厳の滝が見える平らな場所がある。ここを明智平という。天海上人は明智平に来たときに「良い名だ。とても懐かしく遠くの事のようだ」という意味のことを言ったという伝説が残っている。 |

<情報提供して下さったチャンレイさんに感謝します>