| 千葉県で最初に鉄道敷設に動いたのは明治20年11月。佐原町の伊能権之丞他12人が発起人となり武総鉄道を計画した。本所-市川-千葉-佐倉-成田-佐原のルートである。しかしこの2週間後、成東町の安井理民他14人が発起人となった総州鉄道が、本所-市川-千葉-佐倉-八街-芝山-八日市場-銚子を計画した。 ところが、時に千葉県知事・船越衛は両者に対し「千葉県は四方を海、川に囲まれ、水上交通が発達しているため、鉄道は不要。利根川と江戸川を結ぶ利根運河が完成し一層便利になる」との意見を添え政府に提出、鉄道建設は不許可となる。鉄道の利便性が明らかなこの時期でありながら不許可となったのは、工事中の利根運河への影響を考えてのものであろう。 申請を却下された武総鉄道、総州鉄道は協議し、伊能、安井に加え、利根運河の大株主である池田栄亮で総武鉄道の案を提出。ルートも利根水運との競走を避け、佐原や銚子には通さず、本所-市川-千葉-佐倉-八街としている。この創立願書は八街方面に交通の便を開き、佐倉、習志野、国府台の陸軍駐屯地を通過するため、軍事上も有益であることから明治22年12月26日に免許を得、翌23年1月10日に会社が設立された。 しかし会社は資金難と内紛が続いた。市川、海神、幕張等で用地買収や細かな路線決定に苦労している。例えば、佐倉駅は台地の上にあったため、物井駅からは長い築堤を作らねばならず、当初は現在の寺崎トンネルのコースを予定するも、トンネルを掘る費用を惜しみ、北側に大きく迂回したコースになっている。8月25日、ようやく工事が始まる。江戸川で資材が運びやすいとの理由から市川から工事が開始された。 明治27年(1894年)7月20日。総武鉄道の市川-佐倉間が開通。ようやく千葉県初の鉄道が完成。5往復が運行され、単線のために上下列車は船橋で交換された。市川から千葉まで50分、終点の佐倉までは1時間30分。駅は市川、船橋、千葉、佐倉の4駅。市川から先、両国まで乗り合い馬車が一日7回走っていたが、江戸川に橋がなかったため、船で川を越えていた。見物人も含め、かなりの盛況ぶりだったようだ。 総武鉄道開業の10日後、日清戦争が勃発。兵の輸送に臨時列車が多発され、鉄道が軍事上重要であることが認識された。9月27日には上り列車を全てストップさせ、佐倉旅団が出発した。 この時点で総武鉄道は孤立した路線であり、東京とも接続されておらず、乗り換えも非常に不便であった。これを解消すべく、新たに小岩-上野を路線計画に追加、仮免許も得たが、民家の密集するこの地区を通過することは困難であり、変わりに支線として市川から本所への建設を先に進めることとなった。本所駅は津軽藩屋敷跡を利用して作られた。当時、まだ荒川はなく、一帯は低湿地であり、土をいくら盛っても沈下してしまい、築堤が作れず工事は難航。表面は固まっても、地下は泥状のため、築堤を支え切れず「お化け丁場」と言われた。明治27年12月9日、本所-市川間が開通、同日、幕張と四街道の両駅が開設され、本所-市川-船橋-幕張-千葉-四街道-佐倉となった。開通したばかりの総武鉄道に乗った正岡子規が佐倉まで旅をし、各地で句を残している。 次に目指すは佐倉から銚子であった。明治25年公布の鉄道敷設法には「東京府上野より千葉佐倉を経て銚子に至る鉄道、及び本線より分岐し木更津に至る鉄道」が将来建設すべき鉄道とされている。起点が上野なのは、総武鉄道が日本鉄道との連絡を狙い、既に上野-小岩の免許を得ていたためである。この条文には佐倉-銚子間のルートが示されていない。成東、八日市場を通るルートと成田、佐原を通るルートが考えられ、両者とも激しい誘致合戦を繰り広げた。結局、距離の長い分、成東ルートの方が有力者が多く、まず八街延長が決定、その後銚子の醤油醸造業者を中心とした旧総州鉄道派の主張が通り、成東ルートに決定した。工事は順調に進み、明治30年(1897年)6月に銚子までが全通した。本所から千葉が1時間6分、佐倉までが1時間40分、銚子へは4時間10〜20分の旅であり、一番列車で銚子を発てば、東京へ日帰りが可能となった。全通時の駅は本所-市川-中山-船橋-津田沼-幕張-千葉-四街道-佐倉-八街-成東-横芝-八日市場-旭町-飯岡-松岸-銚子である。現在残る横芝、飯岡の駅舎は当時のものである。 当時、日本鉄道は新たに東京駅を計画し、上野-東京間を高架線で結ぼうとしていた。総武鉄道も秋葉原でこれに接続すべく、その条件である同一設計を満たすべく高架線を計画した。こうして本所から両国橋までが日本初の高架線として完成し、東京名所の一つとなった。レンガ作りの橋脚に鉄桁を乗せたものであるため、たれ流しの列車トイレからの落下物が地上に直撃するという深刻な問題もあった。両国橋の駅は大いに賑わい、東武鉄道も浅草から起点を移し、埼玉、群馬方面への出入り口にもなっていた。 それまで東京-銚子間の交通の主力であった利根川水運は鉄道により衰退を余儀なくされた。両国-銚子間を一日2便、18時間で結んでいた水蒸気に対し、総武鉄道は銚子までを4時間で走る。船賃を大幅に下げたりもしたが、客は減る一方。東京湾汽船の東京・霊岸島-千葉・寒川間も値下げしたものの鉄道にはかなわなかった。 人力車、馬車も競争に敗れ、大正2年末迄に沿線で廃業した馬車は65台、人力車は1350台に達したという記録がある。 また、鉄道のルートから外れた町村の打撃も大きかったようだ。 明治39年(1906年)3月、日清、日露の両戦争により軍事輸送に鉄道が不可欠であることから、鉄道国有法が公布された。全国の主な17の私鉄会社を国が買収、千葉県でも、総武、房総、日本の3社が対象となり、総武鉄道は国有鉄道総武線となった。 国有鉄道となり、両国橋-銚子間の7往復のうち、快速列車2往復は3時間34分で運転されたが、他は5時間以上。開業当時よりも遅くなっているのは、客車と貨車を一緒に連結した混合列車が増加したためで、停車する駅ごとに入れ換えがあり、貨車を切り離したり連結したり、機関車が押したり引いたりしながら側線を行き来していたためである。 明治41年(1908年)10月、両国橋-千葉間が複線となったが、これはかなり早い段階の複線化と言える。東海道本線を除けば、中央本線は中野まで、東北本線は大宮まで、山手線すら池袋-田端間は単線であった。これは沿線に軍事施設が多くあったことが理由だが、おかげで輸送力は大きく向上した。 関東大震災後、東京市内の住宅難から総武本線沿線に東京から住宅地が流入し、市川、国府台、真間付近の桃林はみるみる住宅地となり、検見川、稲毛周辺では通勤者が目立ち始めた。新しい住民により東京の文化が大量に持ち込まれ、人情、風俗、生活様式に至るまで沿線は大きく変貌していった。しかし、総武線、京成線の起点が隅田川の東で、通勤の不便さから、移住した千葉から再び東京に戻る人も多くいたようだ。 大正時代頃までの総武本線は隅田川にさえぎられ両国橋でストップ。他県への連絡のない離れ島のようであった。千葉県下から発送された貨物は両国橋に集中し、そこから荷馬車や船で運ばれて行った。このため、大正15年、常磐線金町と新小岩信号場を連絡する貨物線が作られ、県外との往来はこの線を通過して行くようになった。 賑わいを見せていた両国橋駅は、昭和6年(1931年)に両国駅と名を変えた翌年に総武本線が秋葉原を経てお茶の水まで延長されたことで、東京方面との鉄道のみの連絡が可能となり、両国駅は素通りされるようになっていった。 大正12年(1923年)9月1日、関東大震災が発生。亀戸駅は倒壊、錦糸町、両国橋駅は火災で焼失。この両駅構内では機関車5両、客車7両、貨車116両も焼失している。千葉駅の被害も大きかった。しかし、震災当日の午後には被害の少なかった亀戸-稲毛間で被災者等の輸送を開始。駅には人が殺到し、機関車や客車の屋根にまで上る者もいた。総武本線の復旧は10月8日だった。 関東大震災後の復興プランに両国橋からお茶の水までの高架線建設が繰り入れられ、これにより中央本線と接続し、秋葉原駅では東北本線とも連絡することになった。高架鉄道が十字に立体交差する秋葉原駅では大規模な工事であった。 両国橋から千葉間はすでに明治41年に複線化されていたが、昭和7年(1932年)開通のお茶の水-両国間は最初から複線電化されていた。翌年には市川までが電化され、更に昭和8年には船橋までが電化され、お茶の水-中野間が複々線化されたのを利用し、ラッシュ時に急行列車が中野まで直通運転するようになった。 千葉までが電化された昭和10年、お茶の水から千葉まで50分、両国発着の汽車は千葉までノンストップ、最速38分で運転されていた。 戦時色が濃くなると、ガソリン不足からバスも車もストップし鉄道の混雑は増すばかり。出征兵士を見送る日の丸と「万歳」の声、汽車にカメラを向けるとスパイ容疑で警察に連行され、鉄道も兵器という意識が高まり、貨物輸送に重点が置かれた。軍事機密がが漏れるのを防ぐため、日除け用として窓に鎧戸がつけられた。もちろん日の照らない雨天でも同様で、隙間から景色を覗こうものなら警察か憲兵に引き渡されるので、昼間でも薄暗い車内でうつむきながら旅をした。特攻機出撃の香取航空基地の近くを通る干潟駅付近や海岸地帯では、片側だけでなく両側とも鎧戸を開くことが許されなかった。 昭和19年秋以降に空襲が本格化すると、総武本線では錦糸町、亀戸、平井、銚子の各駅が焼失した。列車が機銃掃射を受け、真っ暗なトンネル内で終日停車したという話しも残っている。 トラックはガソリン不足で動けず、船舶は空爆や潜水艦攻撃により打撃を受け、鉄道だけが輸送を支えていた。県内には軍事施設が多くあったためか、鉄道は比較的アメリカ軍の標的とならず、総武線、常磐線の江戸川鉄橋も無事であった。もしこの両橋が破壊されていたら、千葉県は孤立し交通はマヒ状態であっただろう。 昭和20年8月13日、終戦の2日前には、成東駅に停車中の貨物列車にアメリカ軍艦載機が銃撃を浴びせ、弾薬を積んだ貨物が大爆発。駅員、将兵42人が犠牲となり、列車も駅舎も吹き飛ぶという惨事が起こった。 昭和29年、全国で初めての気動車区が千葉(西千葉)に誕生。場所はJR西千葉駅よりやや稲毛寄りで、現在は西千葉公園に姿を変えており、動輪記念碑が建てられている。 戦後直後の混乱を経て、全線電化され、SLは消えて行く。しかし関東地方で最後まで蒸気機関車が走っていたのは総武本線。東海道新幹線「ひかり」が東京-新大阪間を3時間10分で走破するようになっても、両国-銚子間はSLで3時間28分を要し、この区間最速の準急「犬吠」でも2時間8分。東京を出た「ひかり」は名古屋を越えていることになる。昭和44年(1969年)9月30日に千葉県下最後のSLが走り終えた。 昭和30年代、40年代には、沿線の急激な人口増加により、通勤電車の車内は殺人的な混みようであった。昭和32年(1957年)には総武線電車が8両編成となり、38年からは2分30秒間隔運転、加速、減速が得意で、片側4つずつ両面開きのドアを備えた新型の101系を投入、39年には10両編成となった。昭和47年(1972年)7月15日、錦糸町から馬喰町、新日本橋を経て東京駅に入る地下線が開通。千葉から東京へは40年間も両国や秋葉原で乗り換えなければならなかった不便さが解消された。昭和55年(1980年)からは横須賀線との直通運転も始まっている。また、高架化、複々線化もされた。 かつて、千葉鉄道管理局は気動車王国と呼ばれましたが、幹線系で最後に残った総武本線、成田線、鹿島線の電化が昭和49年11月に完成。しかし車両需給の関係からか急行列車と一部の普通列車は翌年3月まで気動車で残っていました。東京駅乗り入れと同時に、特急列車「さざなみ」「わかしお」が運転を開始。それまでは常磐線に「ひたち」「ゆうづる」が走ってはいたものの、県内には停車せず、特急のない後進県であった。 昭和50年には総武本線に銚子への特急「しおさい」が登場。しかし佐倉から先は単線であること等から、表定速度65kmという、当時の最も早い特急と比べ半分程度の鈍足特急である。所要時間は1時間50分程度で、準急から多少短縮されただけだが、特急料金だけは跳ね上がっている。 特急と言えば、平成3年(1991年)からは成田空港への特急「成田エクスプレス」の運転が開始した。が、県内は停車せず、翌年からようやく2往復が千葉に停車するようになるも利用率はかなり低い。 錦糸町-津田沼間は昭和40年代に複々線化されており、津田沼-千葉間も昭和56年(1981年)に複々線化されると、大幅な増発が可能となり、電車も高性能の103、201、205系電車を使用、平成6年(1994年)からはE217系も投入されているが、相変わらず「痛勤」を強いられていることには変わりはない。 |