醤油醸造工場間の運搬は荷馬車や荷車が主であったが、輸送力を高めるため、野田醤油醸造組合は明治33年(1900年)12月8日、野田人車鉄道を開通させた。当時の千葉県内の鉄道と言えば、蒸気機関車の総武、房総、成田の3つのみであり、短距離ローカル鉄道としては野田人車鉄道が初めてということになる。野田町内のみで、県道、里道に敷設された併用軌道の他、一部に専用軌道もあった。野田町の目抜き通りの野田下町-郵便局前間を中心に、下河岸へ向かう野田上町-今上間と途中で分岐して上河岸に至る野田栄町-中野台間の合計約5.1kmである。全線単線で、4箇所に行き違う交換場所があり、また上河岸と下河岸の終点にはループ線があり、荷物の積卸しやトロッコの待避場所としていた。 各工場や倉庫には引込線も敷設されていた。軌間は76.2cm。運行は日の出から日没まで、ダイヤも定められず、出荷に応じて発車した。そのため、行き違い場所以外でもトロッコ同士が遭遇し、荷物の少ない方が線路からトロッコを外し対向車を通過させた。床板に車輪をつけただけの簡単な構造で、側面も屋根もなかった。醤油樽は70個まで積むことが出来た。 明治44年(1911年)に県営鉄道野田線が開通し国鉄常磐線に接続されると、醤油の輸送も水運から陸運に転換。大正2年(1913年)6月18日、人車も県営鉄道野田線の貨物駅である野田町駅構内へ路線を延ばした。しかし野田醤油株式会社(現キッコーマン)の発足後は、同社の運送部門とし人車は営業を続けたが、次第にトラックに代わられるようになった。大正14年(1925年)8月31日、政府の認可を得る前に廃業、正式な廃止許可は翌年の8月25日に出ている。 |