| 鉄道創業当初の成田鉄道とはまったくの別会社である。成宗電気軌道に起源を持つ成田鉄道は不動尊-成田駅前-宗吾の宗吾線、県営鉄道に起源を持つ成田-八日市場の多古線、三里塚-八街の八街線から成る。 毎年春には上野や両国から国鉄の直通臨時列車の三里塚行きが増発され、観桜客が激増した。この頃の鉄道の内燃動力はガソリン機関の全盛期で、ディーゼルエンジンを最も初期に使用したことになる。スピードも成田-八日市場間が1時間15分と、県営鉄道の軽便時代とは大きく向上している。成田から銚子への最短ルートしての役割も大きかった。 親会社の京成電気軌道は、宗吾線の成田駅前-不動尊間の複線用地を利用し、押上からの直通電車を発着させようと計画した。しかし地元の猛反対で京成成田駅は現在の場所で開業することとなった。この時新設された成田鉄道の京成電車前駅と成田駅前駅との距離はわずか74m。乗り遅れても追いかければ次で間に合った。 軌間60cmの軽便・八街線13.8kmは、昭和14年(1939年)、途中の富里村に陸軍飛行場建設のため廃止。成田-八日市場間も資材転用のため政府から撤去を命じられ、その姿を消した。代替交通機関もなく、沿線では「政府は芋の増産を奨励しているが、鉄道がなければ腐ってしまう」と存続を求めたが昭和19年(1944年)1月11日に休止した。会社側は将来の復旧の可能性を残していたが、昭和21年(1946年)に正式に復旧断念。バス事業が主体となり、東総一帯に路線網を持つ千葉交通がその後身である。県営鉄道時代に移転問題で揺れた多古駅跡には現在JRバス多古営業所と車庫があるが、近くには「国鉄バス開通十周年記念碑」がある。成田鉄道撤去の代償に国鉄バスが運行されるまでの運動や経過が記されている。現在、三里塚-千代田間の線路跡は成田空港滑走路の下に埋もれてしまっている。 また、長年営業廃止を求められ続けた成田鉄道宗吾線も昭和19年(1944年)12月11日、戦争による資材転用のため「不要不急鉄道」とされその姿を消した。地元の反対には屈しなかったが、国家権力には弱かった。 |
| 宗吾線 | 宗吾 - 大袋 - 新田 - 成田駅前 - 京成駅前 - 幼稚園前 - 不動尊 |
| 多古線 | 成田 - 西成田 - 東成田 - 法華塚 - 三里塚 - 千代田 - 五辻 - 飯笹 - 染井 - 多古 - 下総吉田 - 豊栄 - 西八日市場 - 八日市場 |
| 八街線 | 八街 - 東八街 - 古込 - 八街街道 - 実ノ口 - 十倉 - 高野 - 富里 - 川津場 - 根古名 - 三里塚 |