| 千葉県にだけ置かれた鉄道連隊は県内各地に軍用線を敷設した。明治44年(1911年)に第一連隊のある千葉から第二連隊のある津田沼迄が完成。更に、松戸にあった陸軍工兵学校(大正8年11月に創設)迄延長された。もともと千葉から松戸までの45kmが1運転区として編成されていた。 津田沼-松戸間の26.2kmのうち、八栄村滝付近までは昭和4年頃に完成、全線開通は昭和7年(1932年)になってからである。大正13年(1924年)、工兵学校から八柱演習場までの軽便路線を工兵学校が敷設した。鉄道連隊は機関車、貨車で資材、機材を運んでいたが、工兵学校はトロッコで運搬した。 カーブが多いのは千葉-津田沼間同様、規定の距離を確保するためである。軍隊の鉄道であるが、平時には一般住民を無料で乗せ、事前に申し込めば荷物の輸送も行った。ただし、しばしば発生する転覆事故に対しては「軍事上支障なき範囲に於て乗車は黙認すべきも生命財産は保証せず」の掲示があった。 戦局が悪化するにつれ、両連隊からは人も汽車、貨車も資材も戦場へ狩り出され、そのまま放置された。戦後になっても放置されたままだった鉄道連隊軍用線の跡は、西武鉄道との獲得合戦に勝った京成電鉄が新京成電鉄という子会社を設立し、旅客営業を始めることとなる。 |
鉄道連隊の津田沼-松戸間の大半は、現在も新京成線として使用されています。しかし、新京成線は鉄道連隊時代の路線をソックリそのまま使用しているのではありません。鉄道連隊時代は演習線だったために、規定された距離を確保せねばならず、大きく蛇行する非常にカーブの多いルートをとっていました。これを新京成線として生まれ変わる際に、いくつかの蛇行ルートが直線でショートカットされました。この部分が廃線跡です。また、松戸の陸軍工兵学校から矢切までの間は、新京成線に移行せず廃止されています。 京成津田沼駅と新津田沼駅の間、JRとオーバークロスする鉄橋は、驚くことに鉄道連隊が架けたもののようです。部分的に補強されたり塗装し直したりはしていますが、半世紀以上前の橋梁が今だに現役とは驚くばかりです。橋台にあたる当時のレンガは、その上から補強されているため見えなくなっています。鉄橋を越え、左へ大きくカーブすると間もなく新津田沼駅ですが、カーブせずに直進方向に築堤が続いています。だんだん低くなっていきますが、築堤上に松の木やサクラの苗木が植えてあります。このルートは、新京成が昭和43年(1968年)まで使用していた新京成線の廃線跡で、鉄道連隊時代のものではありません。 新京成が最も大胆にショートカットを行なったのは、二和向台-初富間です。廃線跡は、二和向台駅から南西方向にほぼ一直線の道路となって伸びています。サクラ並木が美しいこの道路は、鎌ヶ谷市に入ると大きくカーブし、北へ向かいます。 木下街道を越えるとすぐに、真正面にコンクリートの塊が姿を現わします。道路はこれを避けるように、坂道を下りながら左側を通っています。このコンクリートの塊こそが、鉄道連隊の津田沼-松戸間最大の遺構である橋脚跡です。アカシヤ児童遊園という公園内に計4つ残っており、鉄道連隊の紹介看板も設置してありました。道路は坂道を下っていますが、鉄道連隊の機関車は高低差に弱かったため、鉄橋でこの坂を下らずに越えていました。 二和向台-初富間の廃線跡は、グリーン通りと呼ばれる道路となり、初富付近までほぼ直線で北を目指しています。鎌ヶ谷市丸山で、グリーン通りは右方向にカーブしますが、廃線跡は直進方向に空地と公園となって続いています。その先で再び、グリーン通りから分かれた道路となっており、滑らかに新京成線の沿道となります。二和向台-初富間以外でも、元山駅周辺、五香-常盤平間、常盤平-八柱間、みのり台付近から松戸新田付近で小規模なショートカットが行われています。常盤平-八柱間では、現在線より西側のルートをとっており、京葉ガスのガスタンク、21世紀の森のホール付近の空地が廃線跡の空地となり、名残りをとどめています。また、みのり台駅手前から直進方向(南西方向)へ進む県道の一部が廃線跡です。500mほどで北西に「く」の字型に曲がり、直線で松戸新田駅の先へ出る生活道路となり続いています。 上本郷駅から松戸駅までの間は新京成線のオリジナル路線です。鉄道連隊演習線は上本郷駅から直進し、陸軍工兵学校のあった現在の聖徳大学、松戸中央公園に向かっていました。廃線跡は、上本郷駅から胡録台の一本松交差点までの間、松戸第一中学校、相模台小学校の前が道路として使用されています。 また、胡録台から分かれ、和名ヶ谷、陣ヶ前を経て、千葉大学園芸学部の西側から下矢切へ向かうルートもありましたが、この間に当時の痕跡をうかがう遺構は発見出来ませんでした。 |