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私と高校野球

王国よ、再び(レッツゴー大漁節)

私の高校野球ファン歴も今年で丸30年を迎えた。
きっかけとなったのは、あの衝撃的な2つのチームとの出会いである。

私が野球というスポーツに傾注し始めたのは、昭和48年。巨人軍がV9を達成した年のことである。その翌年、テレビでは「侍ジャイアンツ」が放映され、長嶋の引退がいよいよ近づきつつある中で、すっかり身も心もジャイアンツに奪われていた。

そんな夏のある日、父親の仕事の関係の方から
「そんなに野球が好きなら、次の休みに高校野球を観に連れてってあげるよ。今年の千葉県は凄い選手がいるから、きっと面白いよ」
と誘われた。
私は気乗りがしなかった。後楽園球場のジャイアンツ戦ならなりふり構わず食いついていたところだが、
「高校生がやる野球なんて・・・、選手の名前も知らないし・・・、第一そんなに上手なのか?」
くらいに考えていた。実に生意気なガキである。
しかし、野球には違いない。観るのに何の問題もない。私は誘いを受けることにした。

試合当日は夏雲が浮かび、抜けるような青空の真夏日だった。うだるような暑さにうんざりしながら、前年に「わかしお国体」の会場として建設されたばかりの千葉県野球場(通称天台球場)に向かった。電車とバスを乗り継いで、「随分遠くて不便なところだなぁ」と思っていると、眼前にすり鉢上の大きなスタンドが近づいてきた。
初めて見る天台球場は、後楽園球場しか知らない自分にとっては大きな衝撃であった。
正直なところ申し訳程度のスタンドがくっついているだけの球場を想像していたのだが、実際に見るそれはイメージよりも遙かに大きく、そして新しい立派な球場だった。
「こんな立派な球場が千葉にもあったのか!」と私は一気に覚醒し、一目散に階段を駆け上がった。
朝日新聞のTシャツを着たボランティアの高校生たちを掻き分け、3塁側の通路をくぐり抜けると鮮やかに視界が開けた。
スコアボードには手書きで「下総農」「市銚子」と書かれている。

グラウンドに目を移して私は驚いた。試合前の練習にいそしむ高校球児たちは、私が想像していたよりもこれまた遙かに体格が良く、この年から許可されたばかりの金属バットから耳慣れない快音を連発していた。
付き添ってくれた方から、「今年の市立銚子は強いよ。相手の下総農はピッチャーに注目だ。でも今日はなんといっても第2試合。4度目の正直だからね」と聞かされた。
そう、第2試合には過去4年間で3度1点差で敗れている成東が、王者銚子商業に雪辱を期して望む屈指の好カードが用意されていたのだ。
その背景を聞かされ、そこまでしても勝てない成東の執念と、ギリギリの勝負に勝ち続ける銚子商業の底力の双方に、俄然興味が湧いてきた。

第1試合は市立銚子の先制攻撃で初回から点が動いた。子供心に市立銚子の各選手の動きは溌剌としているなぁ、と実感した。その中に石毛宏典がいたと知ったのは10年近くも経った後であった。
待ちに待った第2試合のオーダーが発表されると、付き添いの方から
「土浦日大の工藤と、横浜の永川とあわせて関東ビッグ3と呼ばれているピッチャーの土屋は間違いなく来年はプロだ。ホントに高校生かと思うようなピッチャーだからよーく見ててごらんよ。それともう1人。背番号5番の篠塚はまだ2年生なのに凄いバッターだよ」と教えられた。
試合は息詰まる投手戦の末に延長戦に突入したが、事前情報が耳に入っていたせいか、終始銚子商が負ける気はしなかった。
そして、この年もやはり成東は1点差で敗れた。サヨナラ負けであった。

翌日の決勝はテレビで観戦したが、2-0というスコア以上に、やはり銚子商は強く感じた。
生まれて初めて観た高校野球。そこで初めて観たサヨナラゲーム。その日に耳に刻まれた土屋と篠塚という2人の選手の名前。
全国大会で銚子商がどんな活躍をするのかとても楽しみになった。

子供の目から見てもずば抜けていると感じた銚子商の強さは、やはり甲子園でも本物だった。
打線は全試合5点以上を叩き出し、土屋投手は初戦のPL学園に1点奪われただけで、残りの全イニングをゼロで抑えきった。敢えて金属バットではなく、木製バットを使用していた篠塚選手は2本の本塁打を放ち、甲子園でもその名を轟かせた。

いきなりの地元千葉県代表の優勝に、私の心は躍った。しかしそれは、一瞬の夏のイベントとして季節と共に過ぎ去っていった。


翌年の夏。長嶋巨人が最下位にもがき苦しむ信じられない夏。自分がやる野球に没頭し、それ以外の野球からは目を背けていたある日、「あの日」から1年が経ったことを知らされた。前年は手を引かれる形で天台球場に連れて行かれたこともあり、実際に県大会が開催されている期間に関しては全くの無知であったのだ。
私は、今年も当然銚子商が優勝したものと思っていた。あの篠塚が3年生になったのだ。負けるはずがない。しかし、優勝校の名前を聞かされて私は驚愕した。
「優勝は習志野だよ。これから優勝パレードがあるから、谷津遊園の前まで見に行こう」
当時、私の家は習志野の谷津にあった。しかし、銚子商の全国制覇から高校野球ファンになった私は、地元中の地元である習志野がそんなに強いなどとは思ってもいなかった。取る物もとりあえず、谷津遊園の正面入口目指して一目散に走った。
間近で見る習志野ナインは、スタンドから見るよりも一層巨大であった。特に驚いたのが太腿の太さである。自分とは年齢にして7〜8歳しか離れていないのが信じられなかった。そして、見るからに野球が上手そうであった。

銚子商のみならず、地元習志野までもが甲子園に行った。聞けば習志野は既に全国制覇を経験しているという。自分が暮らすこの千葉という土地は、そんなにも野球が強いのか?
私は応援団として初戦から大阪に乗り込む決心を固めた。母親に頼み込み、現役習高野球部員を息子に持つ地元の商店主にかけあってもらった。しかし、当時の習志野市谷津は、東京湾の漁師町からベッドタウンへと脱皮する過渡期にあり、まだまだ田舎の封建的な風土を多分に残していた。
私は、完成して5年になる分譲マンションに住んでいたのだが、「よそ者」ということで応援団入りを拒否された。それを聞いた私は大きく落胆したが、気を取り直して「昨年の今年で2年続けて強豪チームが出現するなどあり得ない。すぐ負けて帰ってくるだろう」と無理矢理思うことにして、「習高のお手並み拝見」ぐらいの気分で、気軽にテレビ観戦することにした。

初戦は北海道の旭川龍谷であった。終始楽な展開ではあったものの、結局5点を献上した。習志野はセンバツでも当時弱小であった沖縄の豊見城に敗れていることを知り、何も知らない私は、
「沖縄や北海道に苦しんでいるようでは厳しいな」と思った。
しかし、それは大きな間違いであるとすぐに気づく。習志野はその後の3試合を無失点で完勝。
特に準々決勝の磐城戦では打線が爆発し、大量16点を挙げる。この試合でのチーム打率(.590)は、その後10年に渡って1試合におけるチーム最高記録として残り続けた。
私には、もはや冷静を装うことなど不可能であった。

そして迎えた新居浜商業との決勝戦の日のことを私は生涯忘れることができない。
日曜日の午後1時。町は水を打ったように静まりかえっていた。通りを歩く人は全く見当たらない。
地元のチームが全国一を争う大一番の日というのは、こんなにも異様な雰囲気なのかと、少し恐ろしくなったほどである。唯一、勝敗の行方に全く関心がない、谷津遊園に来ているプール客だけが、浮き上がったように商店街を闊歩していた。

試合は新居浜商のペースで進んだ。中盤まで0-3と、わが習高は劣性。新居浜市とは隣町にあたる愛媛県西条市出身の父親は、この究極の状況において躊躇なく新居浜商業の応援を選択していた。
終始にこやかに戦況を見守っていた父親の顔色が変わったのは5回の裏であった。突如として習志野の怒濤のような猛攻が始まり、塁上をランナーが賑わすたびに、静寂を破ってあちこちの家々から沸き起こる拍手と喝采の嵐・・・。その静と動のコントラストは、一糸乱れぬマスゲームの様相すら呈していた。

あっという間に4-3の逆転。終盤に1点を入れられて追いつかれはするものの、習志野ナインは、9回の裏に一気に勝負に出る。
そして下山田選手のヒットが飛び出し、3塁ランナーの越智選手が両手を突き上げてゆっくりとホームベース上に立った感動のフィナーレを迎える。
私は我を忘れて絶叫し、部屋の中で飛び跳ねていた。
それを横目に「騒ぐな!うるさい」と腹いせ混じりに怒鳴る父親の声も、私の耳には全く入らならなかった。

テレビで習高ナインの場内一週を見届けた後、家の外へ出てみた。早くもそこぞかしこの電柱には
「祝 優勝!習志野高校/朝日新聞社」のビラが貼られていた。
子供心に「祝」と「優勝」の間のスペースには「準」の文字も用意されていたであろうことは容易に想像できたが、逆にそこになにも文字が入らなかったことで、「どんなもんだい!」と溜飲を下げることが出来た。
町は興奮の余韻を残しつつも、いつもの往来に戻っていた。しかし、そこにはどことなく「暑さ」とは違う別の「熱さ」が漂っていたことを憶えている。あの「熱さ」は、あの日以来一度も体験したことはない。

数日後、オープンカーによる凱旋パレードが催された。谷津は通過ルートに入っていなかったため、私は自転車にまたがって隣町の袖ヶ浦団地まで繰り出した。黒山の人だかりではっきりとは見えなかったが、つい数週間前に谷津遊園で見た時よりも格段に風格を漂わせている習高ナインの晴れがましい姿が印象的であった。

以来、今日まで高校野球に魅せられ続けている。高校野球との初めての出会いが銚商と習高だった私にとって、甲子園に行くのはどこでもいいという問題ではなくなってしまった。それほど当時のあの2校は本当に強く、安定感が抜群であった。全国大会に出れば、何かをやってくれそうな予感が、常にあった。
その威風堂々としたあのユニフォームの脅威は、世代が違っても、選手が変わっても、おそらく今日まで脈々と受け継がれていることであろう。事実、この両校には根強いオールドファンが数多く存在しており、県大会上位に進出しようものなら、天台やマリンは一種独特の雰囲気に包まれる。気持の入れようが俄然違ってくるのは、私だけではないはずである。

だが、千葉の野球は皮肉なことに「あの日」がピークとなってしまった。以来、全国制覇はただの一度も達成されていない。私は今もなお、「あの日」が再び訪れることを夢見ながら、銚商と習高の動向を気にかけている。
そして毎年、2校が姿を消したその日から、次の夏を指折り数えているのである。

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