高校野球表紙私と高校野球

私と高校野球 昭和55年(1980年)
習志野

熱気、そして千葉を飛び出して(Minstrel)

 野球場初体験。それまで近所の公園やグラウンドでの野球やソフトボール大会に出たり、地域のチームに入ったりしたことはあったが、本物の野球場に行ったのは初めてだった。

 千葉県営球場、通称・天台球場。
 小学生だった私は、夏休み恒例の市内ソフトボール大会に出るための地区ソフトボールチームに入っていた。その日、チームの練習は軽いキャッチボールだけで終わり、ユニフォームを来たまま皆で天台へ出かけたのだった。

 印象は、大きいとか広いというものではなかった。

 「あつい!」

 とにかく熱かった。7月27日、真夏の炎天下。暑いのは当たり前である。
 しかしそれ以上に観客の熱気に驚いた。
 天台球場は満員。

 試合を行うのは、5年ぶりの甲子園を狙う習志野高校と悲願の初出場を目指す成東高校。ともに千葉を代表する人気校だ。

 習志野高校。5年前には全国制覇の偉業を成しているが、その後甲子園からは遠ざかっている。前回の甲子園以後の4年間、翌年に銚子商がベスト8に入っている以外は千葉商、我孫子、市立銚子と3年連続甲子園初戦敗退を喫している。「野球王国・千葉」としては、やはり本命の銚子商か習志野でないとダメだという空気が流れていた。そんな中でのこの年の決勝進出だった。

 成東高校。鈴木孝政投手がこの場所で銚子商との激闘を演じてから早8年になる。あの大投手はその後、ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団しすぐに活躍している。8年前に限らず、天下の銚子商を何度もあと一歩まで追い詰めながら、ことごとく涙を呑み「非運の成東」とまで呼ばれている。銚子商と習志野もライバルだが、千葉県内で銚子商のライバルといえば、やはり成東を連想する。もういい加減、そろそろ甲子園に行くのではないかという空気もあった。

 「どちらも甲子園に行ってほしい」そんな千葉のファンの想いが交錯していたから熱かったのだろう。

 しかし私はそんなことは何も知らない。かすかに覚えている5年前の記憶は、習志野の優勝パレードが花見川の方まであったという、ぼんやりとしたものだけだった。それが何のパレードかも知らなかった。

 天台球場の内野席の上段。周囲は習志野ファンでいっぱいだった。

 「かっとばせー、ならこう」

 そうか、習志野のことを「ならこう」って呼ぶんだ。

 習志野の打者が打つたびに総立ちになり、一歩乗り遅れた私は興奮した大人たちの背中しか見えなくなる。

 習志野の投手、何て速い球を投げるんだろう。
 周囲が習志野ファンばかりだったせいで、習志野が良く見えたのか、実際、試合も終始優勢だったからそう見えたのか。
 初めて見る本格的な生の野球の試合に、投手の善し悪しや球のスピードの違いなど分からないはずだ。だが、習志野の投手だけやたら速く見えた。
 この投手、後に市立船橋の監督として全国に名を馳せる小林徹投手である。

 習志野が優勝した。周囲が大騒ぎをしていたことしか記憶にない。閉会式などは、多分見ずに帰ったのだろう。

 習志野の甲子園。たった1試合、それも半分は周囲の観客の背中を見ていただけなのにすごく身近に感じる。テレビにかじり付いて必死に応援する。
 延長の末の勝利。なんて嬉しいんだ。

 2戦目。この日、母の実家の福井県に行く日だった。
 北陸本線の駅を降り、そこからはタクシー。間もなく始まる習志野と東北高校の試合の中継がラジオから聞こえて来た。

 「千葉から来たんかぁ。習志野は強いねぇ。優勝するんと違うか?」

 タクシーの運ちゃんの声だ。
 母の実家に到着。試合は0-7の劣勢。

 「習志野ってすごい弱いねー」

 北海道から来ていた親戚の子の声だ。この年、北海道勢は活躍していた。
 悔しくてたまらないが、それ以上にテレビに映っているシーンが信じられなかった。

 「福井って遠いねぇ」

 話しを変えるように、誰にともなく話した。

 「遠かったでしょう。ゆっくり休んでね」

 親戚のおばちゃんの声だ。本当は話しを変えたのではない。習志野が敗退して、急に身近な存在がいなくなってしまい、自分が見知らぬ土地にいることを実感しただけだった。

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