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成田中の活躍と藤崎総三郎投手
大正2年(1913年)、関東大会が開催され、茨城県の龍ヶ崎中が東京の強豪・早稲田中、早稲田実を破り優勝した。同年10月、成田中はこの龍ヶ崎中を迎え試合をしている。成田中は自校グラウンドにおいて、大学チーム以外には不敗を誇り、龍ヶ崎中を破れば関東覇者になれると意気込んでのぞんだが、肝心な所でエラーが出、1-2で惜敗した。
大正3年(1914年)、佐倉中野球部が復活。発会式で成田中と対戦したが、10-7で成田中が勝利を収めた。成田中のエース・藤崎総三郎は左腕の上手、下手、横手を使い分け、インドロップとシュートのコンビネーションが抜群。更には打者によっては右でも投げたという、まさに伝説の投手である。千葉の生んだ最初の好投手と言えるだろう。藤崎投手は年間を通してわずか3安打しかされなかったと『成田高等学校史』に記されている。
成田中は千葉県内敵なし、向が岡球場で対戦した龍ヶ崎中も破っている。残念ながらこの年秋に皇太后陛下が崩御され関東大会は中止となったが、10月には千葉中、茂原農、千葉師範の連合チームと対戦し、28-3で成田中が勝っている。この試合でも藤崎投手は12奪三振のノーヒットノーランを達成した。連合チームの3点は四球と失策絡みだった。結局、成田中はこの年を無敗で終えた。
戦後、藤崎は成田高校の野球部長として、木内武之助監督とともに甲子園ベスト4まで導いている。
王者・慶応普通部との試合
大正5年(1916年)、この年から全国大会の予選として関東大会が行われるようになった。早大球場で開催され、茨城から1校、神奈川から2校、東京から13校の計16校が参加したが、千葉県はまだ参加が許されなかった。その関東大会で優勝した慶応普通部が全国大会でも優勝した。
この年の11月、成東中で試合が催されている。まず、千葉中、佐倉中、千葉師範、成田中連合チームと成東中が対戦し、8-2で連合チームが勝った。その試合の後、成東中を加えた千葉県連合軍が全国優勝した慶応普通部を招いて試合をした。試合は千葉県連合軍の押し気味で進んだが、得点は3-7で慶応普通部が勝負強さを見せ、勝利を収めた。
大正6年(1917年)になると、禁止されていた対校試合も緩やかになり、千葉中や銚子商は松屋呉服店のプウル倶楽部と対戦したりしている。
千葉中と千葉師範はお互いにライバル意識を持っており、試合では判定を巡り大モメになったり試合が打ち切りになったりすることがあった。良きライバルであった両者だが、下品な野次も多く、紛争も起こっている。千葉中は、師範生を「官費官費」と罵り、朝の集会で校長に注意されたという逸話も残っている。
予選に初参加
野球熱の高まる一方の千葉県勢は大正7年(1918年)、ついに全国大会の予選出場が許された。この大会から関東大会は千葉・茨城・栃木の3県、東京と神奈川で京浜大会という編成となった。この時代は、各県とも大会に参加できるチームはわずかだったため県大会は存在せず、エントリーしたチームはいきなり関東大会に出場していた。
これまでは東京・茨城・神奈川だけの参加で、早大グラウンドで試合が行われていたが、東京と神奈川が別大会となったため、関東大会は茨城がリードすることとなり、水戸商のグラウンドを会場とし開催された。
千葉県から全国大会の予選としての関東大会に初出場したのは千葉師範と銚子商。両チームとも初戦で敗れたものの、敗者復活戦で千葉師範が銚子商を破り、準決勝も勝ち、決勝に進出した。決勝では龍ヶ崎中に敗れたが、千葉師範が決勝まで残ったことは千葉県下の各校に大いに刺激を与えた。
特に千葉中はライバルの千葉師範が決勝まで残ったことで意気は上がり、猛練習の結果、大正8年(1919年)には農大との練習試合に2連勝した。更に畜産試験場に18-2、東京神田クラブに14-9、千葉医専に15-8、早稲田実には敗れたものの東京書店を15-1と破り好調を維持。専門学校生徒によるアストラ倶楽部には5-6で惜敗したものの、学士会には3勝3敗、鉄道連隊にも1勝し、春の成績を12勝5敗の好成績で夏の大会に突入した。
千葉中と千葉師範の熾烈なライバル関係とは別に、成田中も関東予選に向けて強化を続けていた。早大からコーチを招き練習を重ね、佐原中、千葉師範、千葉中を破り、さらに関東チャンピオンの龍ヶ崎中も10-7で撃破した。ところがこの後の夏合宿で数名の選手が体調を崩し、体調最悪のまま関東大会を迎えてしまう。
大正8年(1919年)の関東大会には千葉師範に加え千葉中と成田中も参加し、千葉県からは3校が出場した。この年からは前年の優勝校グラウンドが会場になることになっており、龍ヶ崎中で開催された。期待の成田中は初戦で龍ヶ崎中と対戦、元気なく5-10で敗れた。この年の成田中は早稲田実や横浜の実業チーム・覇者港クラブをも倒していただけに、選手の体調不良が惜しまれた。また期待の千葉中、千葉師範も奮わなかった。
大荒れの関東大会準決勝
大正11年(1922年)、茨城・龍ヶ崎中グラウンドでの関東大会準決勝は地元・龍ヶ崎中と千葉中の対戦。1-0で千葉中がリードし、龍ヶ崎中の9回表の攻撃を迎えた。先頭の1番打者は故意のデッドボールで出塁。送って一死2塁。続く3番打者の1塁ファウルフライを捕ろうとした千葉中の選手を龍ヶ崎中応援団が背後から突き飛ばし落球。更に次の打球がライトへ上がると応援団が大挙して乱入し、打球はおろか右翼手の姿も見えないほどの大混乱となる。主審がかけつけて、判定は3塁打とされ同点。動揺からか、この後パスボールで逆転され龍ヶ崎中が勝利を収めた。
しかしこの後、千葉中校長は文部省に提訴。これが中学校野球大会の改革の発端となった。茨城県勢は2年間出場辞退となり、この年を含め5年連続全国大会出場の龍ヶ崎中の記録もストップしてしまうこととなる。
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