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房総高校野球物語

戦国時代

受難の時代
 高度経済成長の時代、千葉県は東京のベッドタウンとして急速に発展。のどかな田園風景は次々に宅地に変貌し、人口は飛躍的に増加。高校の数も20年で倍以上に増えている。
 これにより次第に有力選手が分散し、新興勢力が台頭、千葉の戦国時代の幕開けとなる。これは同時に各校のレベルの平均化につながり、突出した強豪校が出ず、甲子園常勝チームの存在の崩壊を意味することでもあった。野球王国・千葉の平均レベルは高いものの甲子園ではなかなか勝てないということになる。

強豪校が相次ぎ初戦敗退
 昭和53年(1978年)のセンバツ、大型投手として注目された菊池投手を擁する印旛が初出場、東の横綱として注目された。しかし初陣の緊張からか、本来の力を発揮出来ないまま、初戦で夏に全国制覇するPL学園に敗れた。
 夏は好投手・武藤の我孫子が銚子商を完封し初の甲子園。長く続いた銚子商・習志野の2強時代の終焉を感じさる新興勢力の台頭であった。そして戦国時代到来の先陣を切ったのが印旛・蒲原監督であり、我孫子・荒井監督であった。
 我孫子は甲子園初戦で神里-石嶺バッテリーの豊見城と対戦。好カードとして注目されたものの延長10回の末、惜敗した。
 さらに翌年の夏、長く銚子商の下に隠れていた市立銚子が初めて千葉を制し、悲願の甲子園初出場を決めた。投打の中心は主将で4番の銚子投手。
 甲子園初戦の高知戦では本塁打を放つ活躍を見せたが、同点で迎えた6回にピッチャー返しのライナーを顔面に当て負傷退場というアクシデントに見舞われた。その後、チームも大黒柱を欠き、逆転負けを喫した。これで千葉勢は夏の甲子園3連敗となった。

スピード甲子園
 昭和55年(1980年)のセンバツでは創立3年目のスピード甲子園で話題になった八千代松陰が出場したが初戦で惜敗。これで春夏の甲子園で5連敗。1勝が遠い時期である。
 「やはり千葉は銚子商か習志野とでなければ」いうことで、この年の夏の代表の座は全国制覇から5年ぶりに習志野が獲得した。千葉大会の決勝の習志野と成東の対戦は、古豪同士の対決ということで多くのファンが詰め掛けた。
 習志野の甲子園は、倉吉北に苦戦しつつ千葉勢久しぶりの1勝を挙げたものの、2回戦で大敗した。

印旛の快進撃
 昭和56年(1981年)春、関東王者・印旛が3年ぶり2度目のセンバツに出場した。好投手・佐藤とスラッガー・月山のバッテリーが評判を集めた。
 甲子園初戦では竹下投手や渡真利、金城と強者揃いの興南と対戦。熱戦の末に3-1で振り切りった。2回戦で延岡工を退け、迎えた3回戦の相手は秋田経大付。手に汗握る熱戦は延長戦となったが、辛くも勝利を収めた。準決勝では上宮を下し決勝進出。
 決勝の相手は3年前の初出場時に敗れているPL学園。左腕エース西川と田渕のバッテリーに加え、強打者・吉村もおり、まさに東西の横綱同士の対決となった。試合は投手戦で進み、6回に印旛が先制。試合はそのまま進み、印旛の優勝が見えてきた9回、どこからともなく「逆転のPL」「奇跡のPL」の声が上がり始めた。3年前の夏の大会でPL学園は準々決勝から3試合連続の逆転勝利を挙げ、それも9回土壇場からの信じられない大逆転を演じたためでそう呼ばれていた。印旛が意識してしまったのか、はたまた偶然か、9回一死からまさかの逆転サヨナラ負けを喫し、あと一歩のところで優勝を逃してしまった。