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房総高校野球物語

習志野の全国制覇

習志野・石井好博投手
 木樽と谷沢の力のこもった対決を習志野ベンチで見守っていた1年生がいた。石井好博、後に千葉県の高校野球シーンに多大な影響を与える人物である。2年後、石井は習志野のエースに成長した。緩急や頭脳的なインサイドワークに加え、石井投手には絶妙の牽制球があった。監督の市原が考案したサインプレイで、毎日守備練習の他に30分の特訓をし、2塁を刺すサインだけでも4種類あったと言われている。

絶妙の牽制球
 昭和42年(1967年)、習志野は3回戦の市立船橋戦以外は難無く勝ち上がり、2度目の甲子園進出を決めた。しかし甲子園では下馬評にもあがらない全くの無名校だった。
 ところが初戦、練習試合で3戦3敗の相手・堀越を破ると一気に勢いに乗り、仙台商、富山商と倒しベスト4に駆け上がった。
 準決勝では優勝候補の中京と対戦した。中京とは5年前の初出場時にも対戦し0-2で負けている。3-0でリードした6回裏、二死1,2塁と中京のチャンス到来。中京は得意の機動力野球を披露しようかというその時、石井・醍醐バッテリーの絶妙のサインプレイで2塁走者は牽制アウト、ピンチを脱する。これでこの試合の牽制死は3回目。石井はこの試合だけで何と4つの牽制アウトを記録している。
 決勝戦、習志野は広陵を7-1の大差で下し、深紅の優勝旗は初めて江戸川を渡った。

その後の千葉勢
 習志野の全国制覇は千葉に大きな影響を与えた。特にあと一歩で優勝を逃し、全国制覇の先を越された銚子商はここから甲子園常連校となり常に上位を伺う存在となる。
 習志野優勝の翌年の昭和43年(1968年)のセンバツ、千葉県勢としても銚子商としても15年ぶり2度目の出場を果たし、これを皮切りに、44年(1969年)春、45年(1970年)夏、46年(1971年)夏、47年(1972年)春、48年(1973年)春夏と毎年甲子園に出場し、ベスト4に1回、ベスト8に2回進出した。
 その他、昭和46年(1971年)春には木更津中央がベスト4に進出する活躍をし、千葉商もセンバツでベスト8に入っている。千葉県のレベルが全国上位にまで成長していることが証明される成績と言えるだろう。