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房総高校野球物語

戦前の千葉代表〜幻の3年連続出場、千葉商

新球場と戦争の影
 昭和12年(1937年)6月、千葉寺に新球場(県営球場)が完成。神宮球場に匹敵するというこの球場の建設費用は7割近くが募金によるものであった。
 日中戦争が始まったこの年は、戦争の暗い影がつきまとっていた。千葉大会の開会式では国旗掲揚と君が代斉唱に続いて、選手全員が皇居の方角へ深々と頭を下げる「宮城遥拝」と皇軍の武運長久を祈る黙祷が行われている。
 戦時体制が更に強くなった昭和15年(1940年)。甲子園での全国大会は全日本中等学校体育競技総力大会の一部門として行われ、陸上、水上、庭球(硬,軟)、体操、バレー、バスケの試合も甲子園周辺で開催され、開会式では全種目の選手が甲子園に集結した。「球技を通じて皇国臣民たる資質を錬成せん」という選手宣誓だった。

幻の3年連続出場
 千葉中の黄金時代が去った昭和12年(1937年)、13年(1938年)は、編成の変わった南関東大会で神奈川勢の厚い壁に圧倒さた。千葉県勢はこの壁を突破すべく猛練習を重ねた。

(小川重幸氏所蔵)
千葉商、甲子園初出場
 昭和14年(1939年)、きゃしゃな体ながらコントロールの良い速球とドロップ(落ちるカーブ)を武器にした、数え15歳の若き好投手・小川を擁する千葉商が接戦を勝ち抜き千葉大会決勝へ。決勝では関東中に破れたものの、南関東大会へ進出。豊岡実と大宮農商を圧倒し、決勝では再度関東中と対戦することとなった。千葉商は3点をリードされる苦しい展開となるが逆転で勝利を飾り、甲子園初出場を決めた。巧みにリードした秋葉捕手の存在も大きかった。
 甲子園では初戦で強豪・下関商に3-4で破れたが、翌年、小川の球威は更に強力になり、4試合で1失点のみの安定感で千葉大会を制し、南関東大会では横浜商、成田中、大宮工を全て完封し、2年連続出場を決めた。
 甲子園でも小川の速球は冴え、仙台一中に7-0の完封勝ちを収めた。千葉商は3回戦でその年準優勝した島田商に破れている。
 昭和16年(1941年)、千葉商は千葉県勢としては前人未到の3年連続甲子園を目指す。千葉中、成東中、佐倉中を破り、決勝では3年連続で関東中と対戦、8-1と圧倒し千葉大会優勝。
 いよいよ3年連続出場が視野に入ろうとしていた時、戦争の影響で国民学校令が出され、文部省は全国運動競技大会禁止令を出した。これにより第27回全国中等学校野球大会は予選半ばで打ち切りになってしまい、千葉商の3年連続出場も幻に終わった。千葉商ナインは悔し涙も見せられないまま球場を去ったといわれている。

その後の千葉寺球場
 周りを土手に囲まれた千葉寺球場のグラウンドは「国策」の名のもとクワで耕され、一面イモ畑と化した。緑色のフェンスがわずかに球場らしさをとどめるのみに変貌してしまった。
 終戦後の昭和22年(1947年)、球児たちが千葉寺球場に帰って来た時には、イモ畑を踏みかためただけのグラウンドはイレギュラーバウンドだらけで、「洗濯板球場」と呼ばれるほどであった。
 昭和43年(1968年)、県から市へ移管されてからは「千葉寺球場」と呼ばれ、昭和62年(1987年)に市の青葉の森スポーツプラザが完成すると50年間の使命を終えた。
 数々の熱闘を展開したその跡地は現在、閑静な住宅地となっている。